日々雑感、そしてティーレマン自伝の続き、ソーセージ・サラダ(笑)の巻 |
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2016年 06月 23日
みっちは今年66歳ですが、まあ体力の衰えはともかく、問題なのは記憶力です。 ああっ、もう駄目だなと痛切に感じるのは、すでに持っている本やCDを間違えてまた買ったりすること。(笑) さらにひどいのは、自分の書いたブログの過去記事の内容まで、きれいさっぱり忘れていて、改めて読んだりすると、ほほぉと思ったりすること。(爆) 兼好法師は「徒然草」を書いたときは、何歳くらいだったのかね。 きっと、みっちよりもずっと若かったんでしょうなぁ。(汗) ところで、この「徒然草」の冒頭ですが、 『つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』 現代語の定訳はあるんでしょうか。 まあ、いいや、みっち訳。(笑) 『つれづれな気分に任せ、その日一日を過ごし、硯に向かって、心に浮かんでは消えるあれこれを、そこはかとなく書き表してみると、怪しげなところもあるし、正気を疑わせるようなところもあるのだ。』 昔、教科書で読んだときは、何だぁ、と思いましたが、今の時点では中々だと感じます。 それでは、ティーレマンの自伝を拾い読みしましょう。 今日は、「クモの巣、荘重さ、ソーセージ・サラダ:バイロイトと緑の丘」という章です。クモの巣や荘重さはいいとして、ソーセージ・サラダって何やの?、まあそれは追って説明するとしまして。(笑) 今回は長いので内容をかいつまんでの紹介です。 (完全な訳ではありません、それなりの要約です-笑) 『...そして「特別扱いなし」というのがフェスティバルの原則であり、そういったことに関心ある人に申し上げれば、「さまよえるオランダ人」を指揮しても、「神々の黄昏」を指揮しても、得るものは同じである。ディレクターの報酬は公演が再演されるごとに半減する(プレミアの年には100%、再演の時は50%、再々演は25%、という具合) ローエングリン役を大スター歌手が演ろうが、有望な新人が演ろうが、ギャラは同じである』 ほほぉ、バイロイトはどうも家族経営的で、派手なショービジネスとは無縁のようです。もちろん、年々状況は変化しているのでしょうが。 『毎年7月25日の開催の時のレッド・カーペット以外は、バイロイト・フェスティバルは魅惑的なものではない。そのレッド・カーペットにしても、オープニングの夜には巻き上げられてしまうのだ。』 また、バイロイト劇場は、古い木造建築である。 『いちど、足を強く踏み鳴らしてみれば良い。うつろな響きがするはずだ。しっかりした基礎というのはなく、あるのは、砂と、クモの巣、ゆるく積まれた石、それに小動物の死骸だ。それと、馬鹿にならない量の水である。(2010年になって、やっと新しい排水システムが引かれ、雷雨や豪雨の時でも、ホワイエは水浸しにならなくなった)』 空調もない。 『(空調が効きすぎて)中の湿気がすっかり吸い取られれば、木材は割れ、あちこちで反ってしまうだろう。それで、そこそこの効果のダクト・クーリング・システムが1990年に取り付けられ、観客席は過ごしやすくなった。だが、ピットにいる罪深き我々はといえば、「神々の黄昏」あたりでは48度にも感じられる熱気の中にいるのである。指揮者のカール・ベームは、そういう時には、両足を浸けるための、冷たい水の入った洗面器を2つ用意させたと言われている。私はヴォルフガング・ワーグナーの許しを得て、2つの換気用管を指揮者の演壇に取り付けさせた。あまり格好は良くないが、換気を保つ役には立つ。どのみち、指揮台は、小さなランプやライト類、ケーブルやらストリップの照明などで、太古の昔の地下操縦席みたいなのである。決して、説教台とか楽譜台とかいった雰囲気ではない。』 有名なオーケストラ・ピットの狭さについて。 『数学的には、奏者一人あたりの面積は1.129平方メートルである。したがって、オーケストラが124名で構成されるとすれば、全体で140平方メートルとなる。決して大きなスペースではない。』 さらに劇場創建時の話。 『全てがほとんど仕上がった時に、彼(リヒアルト・ヴァーグナー)はピットを再び拡張したのである。今回は観客席の前の2つの列を取り壊したのだ。そして、もはや建築に関して何も出来なくなると、彼は楽譜の中のいくつかのパッセージの楽器構成を見直した、「指輪」についてもである。』 ここが面白いところで、ヴァーグナーはバイロイト祝祭劇場の設計者ですが、実際に作って音響効果を確かめ、不十分なところは、楽譜自体を改めているんですね。注意すべきは「マイスタージンガー」以前の楽劇は、必ずしも祝祭劇場の音響効果を想定していない、ということです。ティーレマンはべつのところで、「マイスタージンガー」は祝祭劇場では、あまりうまく響かないと言っています。 そして、有名なバイロイトでの難しさについては、こうです。 『もし私が指揮台に立って、合唱とオーケストラは申し分なく一体であると感じるなら、まず間違いなく、観客席ではその反対の結果である。合唱がやや速く感じられるはずだ。 決してそれほど速くはなく、ほんの少しですが、確実にそうである。 またブリュンヒルデを歌う歌手が、「神々の黄昏」において、最後のパッセージに取りかかる時、彼女が葬送の薪を積むよう求める言葉を、私は彼女の唇を読んで知らねばならない。なぜなら、実際に彼女の声を聴くのは不可能だからである。オーケストラの音が彼女を飲み込んでしまうのだ。 ...中略... オーケストラは良くても、歌手たちの高い、そして遠い叫びが聞こえるだけである。それとは別に、ミュージシャンは互いの音がとても聞き取りにくいし、歌手たちはピットから発せられる(音の)一斉射撃にとても対抗できないように感じる。そして指揮者はといえば、全てを見通せるかもしれないが、自分自身の耳を信じることは出来ないのである。 それで、リハーサル中には、指揮者の演壇のそばに電話が置かれている訳なのだ、旧式な灰色のやつで、小さな赤いライトが点くと、それは観客席にいてチェックをしているアシスタントが、音が大きすぎる、ソフトすぎる、遅すぎる、速すぎる、と気づいたときなのである。公演中には電話はない。(時々私はそれがあったらと思う)バイロイトで、ダニエル・バレンボイムがこう言ったことがある、「指揮者は音楽を聴くことを許されていないのだ」と。 』 へぇー、こんな環境でよく指揮ができるもんだ、と思いますが。(笑) 『時間とともに、指揮者はこうした測定不能の大小の事柄の、感覚を掴めるようになる。そして、「さまよえるオランダ人」におけるフォルテは、「ジークフリート」におけるフォルテとは異なることが分かるのだ。』 そして、他の指揮者のリハーサルを聴きに行くのが、大変有効であるという。 他の劇場では、とても考えられないことですねぇ。バイロイトの緑の丘は、そこに参加する人の態度を変えさせるようです。家庭的雰囲気の伝統は、抜きがたいものがあると言えるでしょう。そして、それに馴染めない人は、去るしかない、とこうです。 また、バイロイトは残響が長いとのこと。 『さらに厄介なのは、祝祭劇場では、エコーが消え去るまでの時間が長いことである。残念ながら、数字については一致した見解がない、ある人はそれが1.8から1.9秒だと言うし、他の人は、なんと法外な2.25秒だという。(テアトロ・コロンとニューヨークのメトだけがそういう長い残響時間に近い)』 みっちの以前の過去記事で、ホールの残響時間のことは扱っています。バイロイトは空席時に1.9秒となってますね。 いずれにせよ、一般的なオペラハウスと比べて、バイロイトの残響が長めなのは間違いないです。 はい、ティーレマンの自伝は読んでいて、とても面白いので、切りがないです。今日はこの辺で。あれっ、ソーセージ・サラダはどうなったって?(笑) それでは、これを。 『 ヴァーグナー家の人はソーセージ・サラダを食べるのが好きだった。幕間の接待として、これはヴァーグナー家で開かれる有名なパーティだが、ソーセージ・サラダがいつも目玉だったのである。私はソーセージ・サラダが好きではない、しかしまったくのところ、テーブルにあるのはそれが全てなのだった。 』 ということで、果たして「ソーセージ・サラダ」とはどんなものなのか?(笑) これは、ドイツ語オリジナルでは、「Wurstsalat」です。 それではGoogleで画像検索してみましょう。 本記事冒頭の画像を参照してください。 まあ、多少バリエーションはあるのでしょうが、こんなものでしょう。ちっとも美味しそうじゃない!(笑) こういうものが、あのバイロイトのヴァーグナー家主催のパーティで、メインのディッシュとして振る舞われるんですか。(驚) もっと豪奢なのを想像していたのですが、ドイツって、そしてバイロイトって、想像以上に地味で質素なのかも。 #
by mitch_hagane
| 2016-06-23 11:58
| 3.音楽
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2016年 06月 18日
(追記があります) みっちの名曲100選もあと少しです。 もうリヒアルト・ヴァーグナーまで来てまして、合計72曲です。あとは、ブルックナー/ブラームス/マーラーで17曲、リヒアルト・シュトラウスで8曲、これで97曲となり、最後にバッハ2曲、謎キャラ(笑)1曲で100曲完の予定です。 こういう企画って、あんまり他人の役には立たないと思いますが(笑)、みっち自身の頭の整理には絶好でした。今まで曖昧に、ほったらかしだったことを、今回相当調べ、新たにCDを聴き、本を読んでいます。 そうそう、そうした資料の一環で、指揮者クリスティアン・ティーレマンの自伝を今、英訳版で読んでいます。記事冒頭の画像が表紙です。Kindle版なので、紙の本と違って、趣きがないですが、その代わり検索等は大変便利なので、仕方がないところです。 参考: 「My Life with Wagner: Fairies, Rings, and Redemption: Exploring Opera's Most Enigmatic Composer」Christian Thielemann(著者) Anthea Bell(英訳者)Pegasus Books(発行)2016年 この自伝の序文にこんなことが書いてあるんです。ちょいと訳してみましょう。 『 15歳か16歳になるまで、私はグスタフ・マーラーを大量に、リヒアルト・ヴァーグナーの音楽と同じくらい聴いておりました。マーラーは思春期の段階では好ましいものpositivelyと思えました。そして、ある日、私はアントン・ブルックナーと出会ったのです、彼はマーラーとは正反対antithesisであり、ヴァーグナーとは共通の点が多いのでした。そして、私は長い間、マーラーとヴァーグナーの両方ともが私の心の中に位置を占めることはない、と感じていました。私は両者から、より人生肯定派で行くか、あるいは人生否定派か、ユートピアか、あるいは深淵の誘惑か、ヴァーグナーか、あるいはマーラーか、決めねばなりませんでした。私はヴァーグナー(そしてブルックナー)の側に立ちました。 』 ありゃぁ、そうなんだ。ブルックナーとヴァーグナーに共通の点が多いというのは良いとしても、マーラーとブルックナーは正反対なんでしたっけ? どうも、この辺りのティーレマンの感覚がよく分かりません。(汗) (以下追記です) 考えてみると、ヴァーグナーとマーラーの両方を得意とした指揮者というのは、いないような。 マーラーを得意とした指揮者で、代表的な3人を挙げるとすれば、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、レナード・バーンスタインというところでしょう。 いずれも、ヴァーグナー(とブルックナー)はちょっと、という感じですね。 ブルックナーを得意とした指揮者はどうかな。 オイゲン・ヨッフム、ギュンター・ヴァント等ですか。 いずれもマーラーはほとんど振っていない。ヴァントはちょっと違いますが、ヨッフムはヴァーグナーを得意としてますね。 ヴァーグナー、ブルックナー、マーラーをそこそこ振っているのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンくらいですか。(でも、マーラーは少ない) この辺りを考えてみると、なかなか面白いです。 (以上追記終わり) まあいいや、この本からあともう一つ、ぐっとお気楽なエピソードを紹介いたしましょう。 まずは、この写真をよく見ておいてください。左がクリスティアン・ティーレマン、右がディナー・ジャケット姿のヴォルフガング・ワーグナー、2002年のバイロイトで「マイスタージンガー」の公演の後に撮られた写真です。 ティーレマンは2000年から2002年までバイロイトで「マイスタージンガー」を振りました。 『 いやいや、私はヴォルフガング・ワーグナーが、私の目の前にディナー・ジャケット姿で立って話しかけている、というのを「マイスタージンガー」の公演の後で経験しました。 彼は決して褒めないと、人はよく文句を言いますが、それは本当です。一番マシな時でも、「リラックスした公演だ」とか「よい透明感だ」というようなことを彼がうなったことが、あの頃に7、8回ほどあったのを、どうにか思い出せるくらいです。決してそれ以上はないのです。 ...中略... いつもですと、私はヴォルフガング・ワーグナーを彼の足音で分かります。(みっち注:彼は晩年杖を使っていたようです)彼は階段の上で一息入れ、指揮者の楽屋のある廊下へ降りてくるのです。しかし、先ほど言った「マイスタージンガー」公演の後では、私は彼の足音を聞き取れませんでした、なぜって、私はシャワーを使っていたのです。それで、私がシャワーから出てくると(楽屋のシャワーには小部屋の前室のようなものはありません)、小さなタオルを提げているだけでしたが、そこに真正面に彼がいて、話を始めたのです。合唱のこととか、歌手のこととか、パッセージのあれやこれやです。とても恥ずかしかったので、私は彼の注意を引こうとしました。「お分かりでしょう、ヘル・ヴァーグナー、私は居心地が悪いのです」 すると彼は答えました。「僕は裸の男を見るのは初めてじゃないよ」そして、話は続くのでした。どうしようもありません。彼は言いたかったことを言い終えると、向きを変え、お休みと言って立ち去りました。その頃には、私の身体は乾いていました。 』 これを読んで、みっちはティーレマンのユーモア感覚はいたってまともであると、判断いたしました。(笑) #
by mitch_hagane
| 2016-06-18 22:50
| 3.音楽
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2016年 06月 15日
はい、今回は後編として、5曲を扱います。どんどん行きましょう。 6.ラインの黄金 「ニーベルングの指輪」はそれまでの「トリスタン」や「マイスタージンガー」や、あるいは「ローエングリン」「タンホイザー」「オランダ人」等の作品と決定的に異なる点があります。それは、「歴史的な年代設定が存在しない」という点です。そりゃあ、まあゲルマンの神話の世界をベースにしているのだから、当然と言えば当然です。これまでの作品は、なんとか時代背景をある程度想定・設定できたのですが。 それゆえ、想像力を逞しくすることで、いかなる舞台も可能となります。いや、もちろん「指輪」以前の作品でも、めっちゃくちゃな舞台設定というのは、いくつもありました。例えば、「タンホイザー」で、舞台を現代にとって、タンホイザーが画家で、ヴィーナスはそのモデル、最後はハッピーエンド、とかね。 しかし、そういう苦しい設定は別として、「指輪」では本来的に設定は自由なのです。だって、ヴォータンが「実際に」どんな格好をしていたか、誰も知らないでしょう? こうしたことを、はっきり目に見える形で、舞台の上で示してくれたのが、パトリス・シェロー演出の「指輪」です。『神々がフロックコートを着ているのが問題ではなく、フロックコートの隣に胸甲が並ぶことこそが問題なのだ。』(本が何処かへ行ってしまったので、引用不正確です。すみません) そこで、ヴィジュアル盤では、ピエール・ブーレーズ指揮、パトリス・シェロー演出のバイロイト盤(1980年Philips原盤)DVDを採ります。何といっても、冒頭ラインの河に近代産業革命を象徴する巨大なダムが出現し、大都会の娼婦のような粧い・振る舞いのラインの乙女たちが登場するシーンには息をのみます。(記事冒頭の舞台写真を見てください。これはアルベリッヒがラインの黄金を奪うシーンですけど) 歌手陣は、まあ色々あって、完璧とは行きませんが、ローゲ役のハインツ・ツェドニクHeinz Zednik(1940-)あたりは印象的です。性格俳優という役どころで、これ以上の人はなかなかいないのでは。ラインの黄金では、なんといってもアルベリッヒ役とローゲ役が重要です。 今のところDVD盤しかないようですが、Blu-ray盤出ないですかね。需要が少ないだろうかなぁ。(汗) シェローの指輪のことを語っていると、いくら紙数があっても、足りませんなぁ。(笑) サヴァリッシュの自伝中でも、「いわゆる『シェロー・リング』...当初、猛烈な異議反対を巻き起こしたものですが、...結局は≪百年に一回のリング≫との評価を受けるに至る」、と少し無念そうに記されています。 そのとおり、サヴァリッシュ指揮ニコラス・レーンホフ演出バイエルン国立歌劇場のDVD盤(1989年11月12月)は、全く絶望的にあかん(笑)のでありました。 はい、ここで気を取り直して、CD盤では、歴史的な功績も考えて、ジョン・カルショーがプロデュースした有名なゲオルグ・ショルティ指揮VPO、Decca原盤(1958年録音)を採りましょう。ウィーンのゾフィエンザールにおけるスタジオ録音は、現時点においても素晴らしいです。 7.ワルキューレ CD盤は世界初のステレオ録音バイロイト・ライブである、カイルベルト指揮盤(1955年ライブ録音TESTAMENT原盤)を採ります。ジョン・カルショーの「指輪」に先立ちDeccaが現地でライブ録音したのですが、お蔵入りになっていた曰く付きの盤です。 アストリッド・ヴァルナイがブリュンヒルデを歌った、第1サイクルの演奏録音を採ります。まことに、これは「ニーベルングの指輪」の規範とするに足る名演奏・名録音であると思います。 「ワルキューレ」だけでなく、「ジークフリート」「神々の黄昏」ともに、CD盤の推奨盤はこのカイルベルト盤といたします。 「ワルキューレ」では、ジークリンデ役のグレ・ブロウェンスティンGre Brouwenstijn(1915-1999)がディープな声で聴かせます。ジークムント役のラモン・ヴィナイRamón Vinay(1912-1996)とぴったりです。また、ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィッチGeorgine von Milinkovič(1913-1986)のフリッカ役もなかなか、チェコ生まれのクロアチアの歌手です。 ヴィジュアル推薦盤はガイ・カシアスの演出、ダニエル・バレンボイムのミラノ座ライブ録画、2010年公演のブルーレイ盤です。(ArtHausMusik原盤) 特に第1幕と第3幕掉尾の演出に圧倒されます。 詳しくは以下の過去記事2本に書いておりますので、繰り返しません。 8.ジークフリート CD盤は「ワルキューレ」と同じくカイルベルト盤を採ります。ジークフリート役はヴォルフガング・ヴィントガッセン、ブリュンヒルデ役はもちろんアストリッド・ヴァルナイ、さすらい人(ヴォータン)役はハンス・ホッターと、隙がありません。 ヴィジュアルの推薦盤は、ダニエル・バレンボイム指揮バイロイト公演、ハリー・クプファー演出、ブリュンヒルデ役アン・エヴァンス、ジークフリート役ジークフリート・イェルザレム、さすらい人役ジョン・トムリンソン(1991-1992年の6月7月バイロイト祝祭劇場での録画)KULTURのBlu-rayバージョンです。 これは話題になった公演ですね。 まず目を引くのは、ミーメの鍛冶場が、壊れた原子炉になっていること。 時代からしてチェルノブイリ事故(1986年)を想定したものなのですが、使われている原子炉容器の形はチェルノブイリ型ではなく、紛うことなく軽水炉のそれです。今となっては、福島の原子炉のことを想起せざるを得ません。芸術は時代を先取りするのです。 だが、このヴィジュアル盤を選ぶ主な理由は、ラストシーンにあります。ブリュンヒルデとジークフリートの2重唱です。 みっちは、ここで特に掉尾のブリュンヒルデの台詞が肝心だと思っています。 「笑い転げる死! lachender Tod!」です。 ちょっと、そのままだと、理解しにくい言葉です。 不死の神々の身分から追放され、死すべきmortal人間となったブリュンヒルデですが、輝ける英雄ジークフリートと結ばれて、何も悔やむことなどない、高らかに笑う人生を手に入れた、とこう歌う訳なのです。 『 どうして死など怖れることがあろうか! さらば、ワルハラの輝ける世界よ! 無敵の城塞も砕け散れ! 神々の黄昏よ、訪れよ! 』 こんな気持ちが純粋に彼女を満たし、この最後の台詞につながっていきます。 死すべき身でなければ、この喜びは得られなかった、よって「笑い転げる死」なのです。 ここでの2人の気持ちを見事に表現した、ハリー・クプファー演出のバイロイト盤を採ります。デイム・アン・エリザベス・ジェーン・エヴァンスは、ちょっと怖そうな女性ではあるが(笑)、身を守る黒レザーのトレンチコートを脱ぎ捨て、柔らかな白のブラウス姿で歌う、ここでの感情の爆発が見事です。ジークフリート役のジークフリート・イェルザレムも見事、陶酔いたします。 みっち注:ハリー・クプファー演出の「指輪」は、2002年にダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレで日本公演がありました。みっちも観ておりますが、今ひとつ感動には至りませんでした。クプファーの演出(と舞台装置他)は、バイロイトとは違っており、違っている点は、ことごとく気にくわないという(笑)、感想を持ちました。また、ブリュンヒルデはデボラ・ポラスキーでしたが、これまた今ひとつと感じました。同演出の舞台を記録したDVD(スペインのリセウ大劇場公演の記録、2003年)もあります。みっちも持っておりますが、今ひとつの印象は変わりません。 9.神々の黄昏 CD盤は「ワルキューレ」「ジークフリート」と同じくカイルベルト盤を採ります。ジークフリート役、ブリュンヒルデ役は変わらず、グンター役をヘルマン・ウーデ、グートルーネ役をグレ・ブロウェンスティン、ハーゲン役をヨーゼフ・グラインドルです。まずは理想の配役でしょう。 さて、ヴィジュアル盤の推薦盤は実はありません。 みっちの脳裏には1987年に観たベルリン・ドイツ・オペラ公演、ゲッツ・フリードリッヒ演出のいわゆる「タイムトンネルの指輪」が目に焼き付いています。どうも、この先も(もうそれほど先は長くない-笑)、これを凌ぐ演出の「神々の黄昏」は観られないのかなぁ、という気にもなっています。この演出は1985年プレミエなんですが、まだやっているみたいです。過去記事をご覧ください。 ところで、ここでヴィジュアルのお薦めではない、ヴィジュアル盤を一つ紹介しておきましょう。 ワイマール国立歌劇場公演、ブリュンヒルデ役をキャサリン・フォスターが歌った盤です。(2008年のライブ収録)ArtHausMusikのDVD盤(Blu-ray盤もあるのですが、何故かみっちの環境では再生に問題がありました-謎) ただし、ただしです、この映像盤は、映像抜きでお薦めです。(笑)というか、映像はまったくお薦めできません。(爆)あくまで、キャサリン・フォスターの歌唱を聴くための盤です。本当は、NHKFMで放送されたバイロイト・ライブを聴いてもらった方がいいです。キャサリンは2013年からずっとバイロイトでブリュンヒルデを歌っています。 特に、今年2016年からはマレク・ヤノフスキがいよいよバイロイトの指揮をしますので、要チェックです。 10.パルジファル CD盤は何といっても、ハンス・クナッパーツブッシュのバイロイト・ライブ、それも1954年盤(ARCHIPEL原盤)を採ります。(過去記事あります)クンドリー役のマルタ・メードルはこの頃が絶頂でありました。1954年盤の入手が難しければ、1952年盤(ANDROMEDA原盤)でも構いません。(過去記事あります)これも素晴らしいです。いずれも、世界の芸術遺産と思います。 映像盤のお薦めは、少し考えたのですが、1992年のクプファー演出(ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレDVD盤)を捨て、レヴァイン/メト、マイヤーさんがクンドリーを歌った盤(1992年Grammophon原盤DVD)を採ります。(過去記事あります)マイヤーさんは、ルックスも含めて、この頃がピークであったと見ます。第1幕の野生の女、第2幕の絶世の美女、第3幕の贖罪の女、見事に演じ分けます。(みっち注:そういえば、クリスタ・ルートヴィヒの回想録にありますが、カラヤンがこの3つの個性をそれぞれ別人に演じさせた「パルジファル」1961年ウィーン国立歌劇場がありました。大いに疑問です。大体、カラヤンが頭で深く考えると、ろくな事はありません-笑-もちろん、ここは同じ人物が多面性を表現するところが良いのです) オットー・シェンクの演出は原典どおりで、ひねりはありませんが、その分失望もありません。 パルジファルにおいては、第2幕が山場です。ここは、英訳でも邦訳でもよいから、とにかくリブレットの意味をつかんでいないと愉しめません。なぜマイヤーさんの表情がこうなるのか、どうしてこういう演技になるのか、リブレットを読んでおれば、納得がいきます。いかなる男も捕らわれるはずの彼女の魅力に、なぜパルジファルは抵抗できるのか、ショーペンハウアーを斜め読みして、知ったげに、個体化の原理を捨てて同情Mitleidによる救済かぁ、と呟きましょう。(笑)そう、断じてカトリシズムの謳歌ではないのです。 みっちが「パルジファル」を最初に観たのは、1989年のウィーン国立歌劇場公演です。このアウグスト・エヴァーディング演出の印象が大きいですね。パルジファル役がルネ・コロ、クンドリー役がエヴァ・ランドヴァでした。全幕に紗幕が下りっぱなしで、渋い舞台でありました。渋すぎて、これは採れない。(笑) 2002年には読売日響の「パルジファル」を観ましたが、高島勲&ヘニング・フォン・ギールケの演出には「???...」(笑)でありました。この時クンドリー役のペトラ・ラングには強い印象を受けましたね。ペトラは、この前の新国立劇場「ローエングリン」で、オルトルート役を歌いましたが、みっち的には今ひとつでありました。 その後は2012年の二期会公演(クラウス・グート演出はみっち当社比で最悪です-怒)、2014年の新国立劇場ハリー・クプファー演出と、これだけ観ております。新国立のクプファーは悪くはなかったのですが、1992年のクプファー演出(ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレDVD盤)を上回るものではありませんでした。過去記事はここです。 長くなりました。ヴァーグナーはこれでお終いです。
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by mitch_hagane
| 2016-06-15 17:31
| 3.音楽
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