
ひょんなことでカラヤン関係の本を数冊読んでいます。
まずは、「ウィーンわが夢の町」アンネット・カズエ・ストゥルナート (著)、新潮社(刊)、(2006年)、著者は日本人女性、それがまことに波乱万丈の人生、これって全部ホンマの話なんですか、という感じなんです。詳しくは同書を読まれるとよいでしょう。
ともかく彼女は一人で日本を脱出し、ウィーンにたどり着きます。これが1970年のこと。日本はいわゆる「高度成長期」にありました。
ところで、この頃の日本をバラ色のように語り、それからバブル期を経て、「失われたXX年」となるのが、最近の「定番」の日本論のようなのですが、みっちはまったくそうは思っていません。高度成長期の日本は、旧来のしがらみに縛られ、自由のない封建的、因習的世界そのものでありました。高度成長を支えたのは、みっちたちよりも一世代上の人たちですが、彼らが能力的に優れていた、あるいは勤勉であった、わけではありません。そもそも高度成長できた主な理由は、「豊富な若い労働力が田舎から都会へ移動したから」なんです。バブル期以降、コンピュータ革命が世界を席巻するのですが、日本人の「論理的思考に異常なほど弱い」特質から、まったくもってなすすべがなかったというのが、実情でしょう。あのころ、一流企業トップの人で、「ぼくはコンピュータには詳しくない」、などと平気で、半ば自慢気に話す者が少なからずいたことが、その証左です。
話がすっかり逸れてしまいました。(笑)アンネット・カズエさんの話に戻りましょう。彼女は電話帳で最初に見つけた先生に習い、ウィーンのアカデミー(現在のウィーン音楽大学)に入学し、さらにはウィーン国立歌劇場のオーディションに合格して、東洋人として初めて入団します。これが1971年のこと。ところがこれで目出度し目出度しではなく、そこで、陰湿ないじめ・人種差別に遭遇するわけです。そして入団して4年経った1975年に転機が訪れます。
それはザルツブルク復活祭音楽祭に彼女も参加したときのこと、1975年の復活祭音楽祭は3月22–31日、演目はプッチーニの《ラ・ボエーム》とワーグナーの《マイスタージンガー》でした。
彼女は《ラ・ボエーム》で町娘の一人を演じています。舞台はパリのカルチェ・ラタン、クリスマス・イヴで賑わい、屋台もたくさん出ているという設定、カラヤンは演出に凝るので、リハーサルのときから、屋台のソーセージやパン、お菓子はすべて本物、おいしそうな香りや湯気が立っています。
アンネット・カズエさんは、当時妊娠中、まだお腹が目立つほどではないが、つわりがひどく、お腹が空いてしかたがなかった。練習はなかなか捗らず、彼女は我慢できず、屋台の上の食べ物をつまみ食いしてしまいます。(笑)
しかし、なんとカラヤンがそれを見咎めて、メガホンで怒鳴るのです。
「おい!そこの青い衣裳を着た人!さっきから食べてばかりいるが、あなたは通行人(エキストラ)か? 歌手か?」
さぁ、大変、カラヤンはステージに上がってきて、彼女に対峙します。普段から彼女に冷たく当たっている団員たちは、彼女がカラヤンに叱られるのを意地悪く期待して待っているようです。ところが、カラヤンは彼女が東洋人であることに気づいて、驚いたようです。「君は、どこの国から来たんだ?」
ここから、引用しましょう。同書pp.207-208からです。
『
「私、日本から一人で来ました…。歌手になりたくて…。 七一年から、ウィーン・オペラ座の団員をつとめています…。 実は、私、いま、妊娠中で…。 つわりがひどくて、お腹が空いて我慢できなくて…。 申し訳ありませんでした…」
正直に話して、頭を下げた。
そして、私は覚悟を決めた。
多分、東洋人では、このプッチーニのオペラは無理だと言われるのだろう。いくらメイクをしたって、東洋人であることは完全には隠せない。一九世紀のパリのカルチェ・ラタンに、東洋人の女性がいることなど、ありえないのだ。
ところがカラヤンは、私の顔を見ながら、意外な言葉を呟いた。
「そうか…。日本から…。よく、あんな遠い所から一人でやってきたね」
そう言ってカラヤンは、私を抱きしめてくれた。
そして、周囲にいる歌手たちに、大声で言った。
「みんな、聞いてくれ」
その声に、下がっていた歌手たちが、いっせいにカラヤンの周囲に寄ってきた。
「この娘は、東洋の果ての、日本という国から一人でやってきた。私は、日本へは何度も公演で行っているから、どんなに遠い所か、よく知っている。寂しい思いをしているに違いない。どうかみんな、これから、彼女の支えになってあげてほしい」
足が震えた。
立っていられなかった。
私は、カラヤンの前で、膝をついてしまい、その場で号泣した。涙が止まらなかった。 メイクが落ちるのも忘れていた。
私の苦悩を分ってくれる人がいた。たったひと目で、私の苦悩を見抜いてくれる人がいた。しかも、それが、世界最高の指揮者カラヤンだった。
翌日から、四年間に及んだ私に対するいじめも人種差別も、すべてピタリと止まってしまった。
』
もう一つ、カラヤンのエピソードを紹介しましょう。
時は1956年秋、カラヤンとベルリン・フィルは、前年に続いて2回目のアメリカ公演を行います。そして、10月26日(金)、27日(土)、28日(日)の3日間は、シカゴのシンフォニーホールでした。
このときカラヤンと同行していた、ヘンリー・C・アルターの回想です。彼はアメリカの占領軍にあって、劇場・音楽係将校だった人物、戦後すぐにカラヤンと親しくなります。
シカゴでのマチネー・コンサートのあと、ホテルで大規模なレセプション・パーティが開かれ、カラヤンも断りきれずに参加していたのです。アルターは頃合いを見て、カラヤンを自分の車で連れ出します。
『
裏口から抜け出し、わたしの古いプリモスに乗りこみ、食事に出かけた。
そこでわたしはカラヤンに、わたしのよく知っている家にいっしょに行かないかとさそった。カラヤンが、この家で一夕を過ごすことになれば、この知人は非常に喜ぶだろうともつけ加えた。
当時、彼は自分の好みのままに、まったく勝手気ままだったので、この申し出は彼の望むところだった。しかし、一つだけ知りたがった。“パーティー"のたぐいかね、ということだった。 パーティーなら彼はのぞまないのである。パーティーなんていうもんじゃない、とわたしは誠意をもって保証した。うまくいけば、わたしたちはそこで、クナックソーセージやビールの小瓶ぐらい手にはいりますよ。ということでわたしたちは出発した。
そこには一組の夫婦とひとりの男がいた。紹介は例によって簡単にすませ、カラヤンは寝椅子にすわり、ひとりの男の隣に席をしめた。その男はカラヤンに向かって、「失礼ながら、なんてお名前です?」といった。そのときのカラヤンの満面の喜色ったらなかった。いまだわたしは見たことがなかった。この瞬間から、この夜は彼にとって歓喜そのものであった。
カラヤンはこの男に向きなおり、そして答えた。 「わたしはカラヤンと申します。指揮者です」といった
』
「カラヤン―人と芸術」E.H.ホイサーマン (著)、猿田悳 (訳)、東京創元社(刊)、(1971年)pp.173
クナックソーセージというのは、クナックブルスト(Knackwurst)のことですかねぇ。ドイツのソーセージです。また寝椅子というのは、たぶんカウチソファみたいなものなのでは。原文(ドイツ語)が入手できないので、よく分かりません。
本日は以上です。
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