
この話は一度書いてみたいと思っていました。
オーディオが全盛だった1970年代前半ごろ、山水・トリオ・パイオニアの3社は「オーディオ御三家」と称されていました。みっちは大学生でしたけど、わがオーディオ仲間たちの間の評判では、アンプの山水(トランスから始まったから)、チューナーのトリオ(通信機器から)、スピーカーのパイオニア(スピーカーから)、ということになっておりました。
さてそのトリオなんですが、もともとの起こりは、1946年設立の有限会社春日無線電気商会で、春日仲一/二郎兄弟と,義兄(姉の夫)の中野英男氏の3名が創業者です。ところが1972年に、春日兄弟はトリオを退社し、新たにケンソニックという会社を起こします。これが1982年にアキュフェーズと改名するわけです。一方トリオは、1986年にケンウッドと改名します。
この間の経緯はつまびらかではないのですが、ウィキペディアの「ケンウッド」の項には、『創立者の春日兄弟は、1972年に社内クーデターで社を追われ、アキュフェーズを設立している。』なんて、物騒がせなことが書いてあります。(笑)
以前に中野英男さんの著書「音楽、オーディオ、人びと」(1982年)を読んで感想を書いております。
これはトリオの月刊広報誌「サプリーム」に、1976年1月から1978年9月まで連載された「オーディオ紳士交遊抄」がもとになっています。春日兄弟の話はちらっと出てきますが、そんなドロドロしたことは書かれていません。
今回、電波新聞社のデジタル版「DEMPA DIGITAL」に「アキュフェーズ物語」全9話が開設されているのに、気づきました。その案内はアキュフェーズのページにありますので、社公認ということなのでしょう。
ここです。
さぁ、そこで問題の経緯はどう書かれているでしょうか。
『創業時を振り返ると、ある会社での経営方針を巡っての主導権争いがあったことを忘れるわけにいかない。ある会社というのは70年前後にオ―ディオ御三家(パイオニア・トリオ・サンスイ)として持てはやされた1社、トリオのことである。
同社では、春日仲一氏が営業部門、春日二郎氏が技術部門を統括する副社長として腕を振るい、両氏の義兄にあたる中野英男社長(故人)とともにオーディオ専業メーカーとしての地歩を築き、成長企業として脚光を浴びていた。
』
『当時、(中略)うれしい悲鳴が聞かれるほど需要は活発だった。このトレンドに「後れを取るな」とばかりに各社ともマスプロ、マスセールスに走り出したのは無理もなかった。
トリオもその例外ではなかった。とりわけ中野社長は「この好機を逃すな」とばかりに普及価格帯の品ぞろえ強化を打ち出す。これに「待った」をかけたのが技術担当副社長の春日二郎氏である。せっかくマニア層からも高く評価されているFMチューナなどHi-Fiコンポの技術開発に支障を来すことを危惧したからで、兄の春日仲一副社長を加えたトップ3人による、この商品戦略をめぐっての衝突に端を発する対立は徐々に抜き差しならぬ様相を深めていく。
役員を含めて社内が中野派と春日派に割れての内紛は、すぐに業績悪化となって表面化する。上場企業として株主(株価)の期待に応えるどころか、もはや業績向上を望めなくなることは火を見るより明らか。結果、ライバル企業が好業績を上げていただけに経営責任を問われるようになっていく。
春日二郎氏が義兄である中野社長に遠慮なくものが言えるのは「自分は創業者であり、またトリオの音響技術を支えている」という自負があったからで、他意はない。確かに「この製品の素晴らしさを認めてくれる、そういう人たちが買ってくれればいい」という高級路線(趣味の世界)と、マスセールスを目指す拡大路線とは両立しない。中野社長の趣味はクラシック音楽を聴くことで、独自のモーツァルト論などその造詣の深さは音楽愛好家から一目も二目も置かれていた。
購入しやすい価格帯で再生装置を提案し、普及させることは同氏の念願でもあった。それだけに何かと「技術優先」を主張する二郎副社長とはしばしば意見が一致せず、互いに煙たい存在になっていく。
ただ、社内外への根回しとなると、二郎氏は無防備というか無頓着というか、全く関心がない。結局、業績悪化の責任を取らされる形で退任(71年11月)するが、兄の春日仲一氏も同時に退任する。
両氏とも相談役として残るのを断り、翌年(72年6月)にはケンソニック(現アキュフェーズ)を創業し、いよいよ本来の「究極の音創り」という理想を追求する第一歩を踏みだすことになる。』
なるほどねぇ、この記事はひょっとすると、アキュフェーズ側に少しバイアスの掛かった内容かもしれませんが、マスセールスを狙う中野英男社長と、高級品志向の春日二郎副社長との間の対立・確執ですか。ありそうな話です。当時のトリオは総合オーディオメーカーとして、普及機から高級機まで幅広い品ぞろえで、手広く製品群を取り揃えていました。また、トリオ・レコードのようなレコード製作にも力を入れていたのです。
それで結局のところ、その後半世紀余を経て、どうなったか。アキュフェーズは今なお高級機メーカーとして、確固たる地位を保っています。トリオはどうか、今はかろうじてJVCケンウッドとして会社は存続していますが、もはやオーディオメーカーとも呼び難い有り様です。かってのオーディオ業界における地位は、雲散霧消してしまいました。1970年代末期から80年代始めにかけてが、オーディオメーカーとしてのトリオ(ケンウッド)の最後の輝きだったような気がします。中野英男(1904-1986)さんが亡くなったあたりの時点では、すでに万事休すという状態だったでしょう。
春日仲一氏(生年没年不詳)、春日二郎氏(1918-2007)、中野英男氏(1904-1986)、いずれも故人となられました。なお、「丸山眞男 音楽の対話」の著者、中野雄(たけし)氏(1931-2024)は中野英男氏の長男、トリオ(ケンウッド)の最盛期に役員を勤めています。記事冒頭の画像は、そのトリオ社内誌「サプリーム」1982年3月号です。この号は瀬川冬樹追悼号なので、今まで捨てずに持っていました。発行人は中野雄氏となっています。
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