
ときどきお邪魔するブログで丸山眞男「日本の思想」を読まれている。あーっ、恥ずかしながら、みっちは丸山眞男って名前は知っているが、さっぱり詳しくなく、いやそれどころか、本の一冊も読んだことがありません。(笑)
この機会に読まなければ、もう一生読む機会もないことでしょう、いくら理科系とは云え、70有余年に及ぶ人生で丸山眞男の本一冊も読んだことがないとなると、ちょいとあれかなぁ、と。まぁ、そんな大袈裟なものでもないのですが(笑)
すると、これもときどきお邪魔する、へうたむさんのブログでも標題の《歴史意識の「古層」》を紹介しておられる。ほぉ、これなら短くてよいか、ということで図書館で手にしてみました。(「忠誠と反逆」ちくま学芸文庫、1998年、に収録)むろん、みっちは「政治学」「思想史学」に無知ですから、とんでもない読み方をしている可能性は高く、偏頗な見方に満ちていると思います。まっ、それは当ブログにはつきもの(笑)でありますから、改めて言い訳をするまでもないのですが。
最初に解題から、まず「歴史意識」は『歴史的出来事についての日本人の思考と記述の様式について』探ったときの『その基底的枠組』のこと、くらいでしょうし、つぎの「古層」は、古事記・日本書紀の冒頭「神代」部分(いわゆる開闢神話)の『叙述から抽出した発想様式』のこと、くらいと思われます。
丸山さんのこの小論文は、本居信長の「古事記伝」にある、今に至るあるいは未来の「歴史の理(ことわり)」がすべて「神代」の記述に凝縮されている、という主張にインスパイアされ、そこで「歴史意識の古層」という言葉で説明できるのではないか、という仮説を提示しています。
これはまぁ何と申しましょうか、魅力的なテーマであると同時に、失礼ながら、「トンデモ本」的、「ヴードゥーの魔術」的な危険な要素を含んでおります。(笑)みっちは、あのクマエのシビュラの書を思い出しちゃいました。例のローマ王があんまり高価なので、値切って買おうとしたら、どんどん焼き捨てて9巻が3巻になり、それでも同じ値段だったので、慌てて残りを買ったというやつです。まぁ、現在・未来の出来事が、過去の神託にすべて語られている、というのは魅力的なテーマではあります。
ところで読み出してすぐ、「まえがき」の最後の節では、こうありました。
『ここでの「論証」は一種の循環論法になることを承知で論がすすめられている』
これはこれは、あらかじめ予防線を張ってきましたね。単純に「神代」の記述から導き出したルール(「古層」)だけでは、材料不足でまともに論を展開できないのでしょう、そこで後世の歴史事例からもルールを導き出そうという。ここまで読んできて、ははぁん、これはあんまり精密な議論をする気はないな、という雰囲気を感じます。(笑)発端は「古事記伝」のはずなのに、いつのまにか記紀神話になっちゃっているのも、その例ですね。
さて、そういったところは、まぁまぁ流すとして、丸山さんは「記紀神話」から3つの「基底範疇」なるものを引き出してきます。その詳細はともあれ、まず「基底範疇」という言葉に引っかかります。これ、英語で云うと何やねん、Base Categoryくらいですか。なんかピンと来ませんね、なんで範疇(カテゴリー)なんでしょうか。カテゴリーと云うからには、対象は複数であろう、すると丸山の云う「基底範疇A」で挙げられているのは、「つくる」「うむ」「なる」である、とこうなります。でも基底範疇のBとCは、それぞれ「つぎ」と「いきほひ」で、あんまり複数でもないみたいです。ここはどーなんだろうなぁ、という感じがいたします。
ここでウィキペディアの丸山眞男の項には、「古代政治思想としての「勢」の発見」として、以下の文章があるのに気づきました。孫引きのようですが、引用してみましょう。
『丸山眞男の日本政治思想における業績の一つとして「勢い(いきほひ)」が「有徳」と見なされていたことの発見がある。『忠誠と異端』所収の「歴史意識の『古層』」のなかで丸山は雄略天皇が日本書紀で「天皇以心為師。誤殺人衆。天下誹謗言、大悪天皇也」とされる一方、「是時、百姓咸言、有徳天皇也」とされていることについて、「大悪(はなはだあ しくまします)という形容詞が、普通の倫理的意味で使用されていることは文脈から明らかである。とするならば右の例における有徳天皇とか至徳天皇とかの称辞は、中国古典に多少とも共通に窺われるような規範性を帯びていないと解するほかはない。中国正史における人物描写の表現で、「大悪」にして同時に「有徳」というような規定はおよそ考えられないだろう。このことは「紀』編纂者にとって、(広義の)儒教的規範観念が既知であり、事実それが随所に駆使されているだけにますます重大である」とし、「いきほひ=徳という用法」が「日本の価値意識を特徴的に示している」とした。』
おおっ、面白い、ここを少し深堀りしてみましょう。まず「勢い(いきほひ)」なんですが、丸山に依れば、これは『気・胆気・威・威福・権・勢・権勢などの訓にあてられる』、英語で云ったらmomentum、enerygy、vigorousあたりでしょうか。ところが、こうした漢語に対応する意味合いとは別に、『徳は勢なり』という日本的な価値意識が認められると云います。徳ですから、英語ならvirtueですか。そして、こうした『用法の特徴をドラスティックに示しているのが「雄略紀」である。』とこうなります。しかたない、みっちも久しぶりに日本書紀を紐解いてみます。
まず「天皇以心為師。誤殺人衆。天下誹謗言、大悪天皇也」です。
これは二年十月の記載で、雄略天皇が史戸(ふみひとべ)などの部署を新設した、という項なんです。ここは文書や記録の作成など文筆にかかわる職務を司るところらしく、おもに中国大陸や朝鮮半島よりの渡来人が携わったらしい、そして、雄略帝はこの部門の者ばかりを重用している、といった恨み言のような文言に挟まれて、上記「大悪天皇」が書かれているのです。
どうでしょうか、みっちが素直に読んだ感じでは、どうもこの雄略帝に対する批判は、新設部門と渡来人への不満・嫉妬と切り離せないように思えます。つまり、雄略帝の政務全般に対する批判と取るのはどうか、ということです。
続いて「是時、百姓咸言、有徳天皇也」です。
これはですね、四年二月の記載なんですが、実に妙な話なんです。なんと雄略帝の前に「現人神」が現れたという。(笑)まぁ、仙人のような人みたいですが、雄略帝はその方と一日優雅に遊んだらしい。それで、この「有徳天皇也」が書かれているのです。まぁここで本当にこれが「現人神」だったのか、というような議論はあまり意味がないでしょう。そこはそうだとして、ここでの世の人々の「徳」という評価は、雄略帝に対するものですけど、どうもこの「現人神」に引きずられている感じがいたします。また、ここでの意味合いは、まずは「virtue」でありましょう。
てなところで、「ドラスティック」な用例であるという雄略紀を読んでみたのですが、みっちはこれが『「勢い(いきほひ)」が「有徳」と見なされていたことの発見』とは、どうも首肯できなかったのであります。(笑)
あーっ、簡単に書くつもりが、ずいぶん長くなってしまいました。
ところでこの丸山眞男という人、クラシック音楽をよくご存知のようですね。「古層」を執拗低音(basso ostinato)に例えていますし、絵巻物のところで、「イデー・フィクス(idée fixe)」なんて突然出てくるのはベルリオーズあたりの連想でしょうか。はっきりした例では、こんなことが書かれています。
『まことに、「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」(《曽根崎心中》)という、「トリスタンとイゾルデ」の楽劇作者も顔負けするような近松版「愛の死」の結びの言葉にもまして、仏教的「来世」観の日本的変質を簡潔に表現しているものはなかろう。』
「トリスタンとイゾルデ」は情死でも心中でもないですけどね。それはよく承知の上で、こう書いたのかな。まぁ、今日はこれくらいにしましょう。
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