5分でわかる(笑)トーマス・マン著「リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」Leiden und Größe Richard Wagners、の巻。 |
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2019年 08月 16日
はい、同書(岩波文庫、青木順三訳、1991年、原著は1933年刊)は文庫版でたかだか150ページほどの分量、さくっと読めてしまえます。ですから、「5分でわかる」もなにもないのですが(笑)、まぁ、それはそれとして、要約というのは、それなりに意味があると思っています。 この本は30年近く前に読んでいます、それでもって急に再読する気になったのは、じつはしょうもない本を読んだからであります。(笑)それは、小林秀雄対話集「直感を磨くもの」(新潮文庫、2014年刊)でして、その中の五味康佑との対話「音楽談義」を読んで、そのあまりにエラソーなもの言いに腹が立ち、さらにワーグナーについて語った言葉のあまりに皮相的なこと、つまらなさにほとほと呆れました。そんな阿呆なことをしゃべっていて、表紙写真のこの偉そうな表情はないだろう、と。(笑) はい、それで、口直しにトーマス・マンのこの名著を再読した、とこういうわけであります。さあて、「5分でわかる リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」のはじまりです。まず全体の構成ですが、以下のように8つの段落に分けてみました。原著にはそんな区分はなく、小見出しもついておりません。念のため。また『』内は原著の引用、それ以外の地の文は、特記ないかぎりみっちの考えであります。ppは同訳書の対応するページです。 1.ヴァーグナーとトスルトイ、イプセンを比較する pp7-18 ここはイントロの部分でして、ヴァーグナーを19世紀を代表する文豪と比較いたします。そうした人物たちと比較できることが、凄いということなんでしょうが、まぁみっち的感覚では、ヴァーグナーは例えばトルストイに比肩すべき、なにものも持っていなかったように思います。(笑)トルストイは、モスクワで『ジークフリート』の公演を観て、途中第2幕でいたたまれず、席を立ちます。これは彼我のレベルの差を比べれば、無理もなかったと思います。 『ヴァーグナーは、偽の芸術を長いこと修行して考えついた芸術模造のいろいろな工夫を、ごく上手に使って、芸術作品の模範的な偽物を拵え上げたのだ。...私の知っているすべての芸術模造品のうちに一つとしてこれほどの腕前と力で芸術模造のすべての遣口、つまり借物、模写、飾り、効果、釣って行く工夫を纏めているものはないからだ。 』トルストイ『芸術とはなにか』河野与一訳 岩波文庫1958年改版178ページ 2.ヴァーグナーを支えた2つのもの、神話と心理学 pp18-29 トーマス・マンも本気でヴァーグナーをそうした文豪たちと比較しようとしていたのではありますまい、まずはレトリックの一つと見ます。つづいて、ヴァーグナーの著作を支えた要素に目をやります。まずは神話と心理学、特に後者フロイトの影響ですね。ですが、フロイト流の(たとえば)マザー・コンプレックスなど、ここで改めて持ち出されても、現代の読者としてはさほどの納得感はありません。 まあ、それはそれとして、ヴァーグナーが仕組んだ、ある種の心理的背景などは、たしかに一考に値します。 たとえば「トリスタンとイゾルデ」における「媚薬」の効果はよく誤解されています。あの媚薬によって、2人は愛し合うようになるのでは、ありません。もともと2人は過去にドラマティックな経緯で、面識があり、お互いにひかれあっていたのです。媚薬はそうした2人の、心理的障害を取り除いたに過ぎません。この点をマンはむろん承知で、こう書きます。 『素朴な叙事詩の中にあった「媚薬」の魔力というモティーフは解釈替えを受けて、すでに存在していた情念を解き放つ単なる手段となっています。-愛し合う二人が飲むものは、実際は単なる水であってもよいのです。ただ、死を飲んだという二人の確信が、彼らを昼間の道徳律から心的に解放するのです。』 3.ヴァーグナーの芸術論 pp29-49 ここではヴァーグナーの総合芸術論に対する痛烈な批判です。 『私が最初から異論を感じていたもの、というより私にはどうでもよかったものは、ヴァーグナーの理論でした。−大体、これを本気で受け取った人がいた、などとは私にはほとんど信じられませんでした。』 さらに付け加えて、こう。 『彼の作品が読むためのものではなく、本来、言語作品ではないということ、それは「音楽の香気」であって、視覚像と演技と音楽という補助を必要としており、こうしたすべての効果が合して、はじめて文学として完結する』 話はちょっと逸れてしまいますが、ヴァーグナーの「管弦楽曲」なんていうCDがあったりします。「ニーベルングの指輪」でいえば、ワルキューレの騎行とか、ジークフリートのライン行、あるいはその葬送の音楽など、聴きどころを集めたとかいう、オムニバス版です。これらを聴くと何かしら不足するものを感じさせます、それをフルトヴェングラーが指揮しようが、クナッパーツブッシュが指揮しようが同じです。純粋音楽としての、ヴァーグナーの実力はこの程度であったということでしょう。これだけでは、ヴァーグナーのオペラの高みに、とうてい届きません。 マンは、そして、ヴァーグナーの音楽芸術の本質を、こう喝破します。 『いや、事実そうだったのです。表面的に見た場合のみならず、熱意と感嘆の念をもって眺めても、誤解を恐れずに言えば、次のように断ずることができるでしょう。すなわち、ヴァーグナーの芸術は、最高度の意志の力と知性をもって、不滅の金字塔として打ち建てられ、天才的なものにまで高められたディレッタンティズムであった、ということです。』 4.ヴァーグナーの音楽の一貫性について pp49-61 『彼の作品には、厳密に言えば、年譜というものはないのです。作品成立の時期というものは確かにあります。しかし、作品は最初からあらかじめあるですし、いちどきに生まれているのです。』 とマンは書いており、確かに「パルジファル」の構想はすでにかなり前から見られるとかあるのですが、みっち的感覚では、それはないと感じます。「オランダ人」から「ローエングリン」までの作品と、それ以降では明らかに完成度に差があります。まぁ、ただ、「マイスタージンガー」以降は「パルジファル」までの作品群の質は同格である、というのなら、それはそうかもしれません。 5.ヴァーグナーの体質 pp61-81 ヴァーグナーの身体的な頑健さ、そしてその芸術家気質について書かれていますが、正直なはなし、マンの論点というか、言わんとすることは、あまりはっきりとは見えません。これこそ、出来上がった芸術作品の質とは、無関係のはなしなのではないでしょうか。 6.ヴァーグナーとショーペンハウアー pp81-104 ショーペンハウアーの思想との関連を語るうえで、トリスタンとイゾルデ第2幕からの一節が引用されます。ただ、青木順三訳は、ちょっと変だと思うので、みっち訳を挙げておきます。 「 selbst dann それにもかかわらず bin ich die Welt: 私が、この世界なのだ 」 この部分の前はイゾルデが「 die uns der Tag 昼がわれらを trügend erhellt, 欺いて照らそうとも 」 これにトリスタンが「 zu täuschendem Wahn 偽りの幻影が entgegengestellt, 阻もうとも 」 そして2人が上記を歌うんですね。うん、まさにショーペンハウアーからの影響を語る上で、相応しい一節だと思います。 ここではまた、「パルジファル」登場人物の異様さを語って、アヒム・フォン・アルニムの「エジプトのイサベラ」が引き合いに出されます。 『これらの登場人物は、アヒム・フォン・アルニムのあの有名な馬車にごたごたと乗り合わせた無気味な連中を思い出させます。』アヒム・フォン・アルニムというと、音楽ファンにとっては、彼の妻ベッティーナ・ブレンターノの方が印象深いですけど。彼女は、ゲーテとベートーヴェンとの歴史的な出会いに大きな役割を果たしています。 7.ヴァーグナーとその作品の諸々の特質 pp104-130 ヴァーグナーが1848年の革命家(いわゆるウィーン体制の崩壊、「諸国民の春」)であった、という点は重要視されません。それは、こう簡単に切り捨てられます。『彼がこうしたものであったのは彼なりの独特な形においてであって、つまり芸術家として、自分の芸術を利するためだったからです。』 またヴァーグナーが後年デューラー帽をかぶって、おつに澄ましていた件については、こうです。『現代のブルジョア的な要素が、ヴァーグナーの人間としての、また芸術家としての個性の中に混在していることは見逃しようもありません。...これは、差し当たりは私生活の上での一特徴ですが、深く精神的芸術的な面にまで関わりを持っています。』 8.ヴァーグナーとそのドイツ的政治的要素 pp130-150 ここはすでに現代の読者には「常識的」なことです。まずは、こんな具合です。 『「マイスタージンガー」の核心を成す結びの言葉である「神聖ローマ帝国は煙となって消え失せようとも、なおわれわれには神聖なるドイツの芸術が残るであろう」という詩句を、愛国的な付随効果をねらう意図のもとに、バス歌手たちが客席に向かって怒号するなら、それはデマゴギーです。』 そして、この言葉どおり、、第二次世界大戦下のバイロイトでは、ハーケンクロイツの翻る「マイスタージンガー」の舞台が見られたわけです。 以上 記事冒頭の画像は、同書の表紙です。小冊子ながら、現在においても、ヴァーグナーの音楽を語る上で、欠かせない書であると思います。ところでご覧のとおり、この本、表紙の惹句には『ヴァーグナーの人と作品を語りつつ、マンが自らの芸術観を披瀝した講演。この講演は、ヴァーグナーをドイツ民族音楽の理想として利用したナチスを厳しく批判したことで、彼の亡命生活への一因にもなった。ヴァーグナーを通じてみた出色のドイツ論。』とあるのですが、この惹句のどの一言も正確ではないのが、不思議です。(笑)
by mitch_hagane
| 2019-08-16 14:36
| 3.音楽
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