はぁ、岩波文庫の1980年刊でして、みっちの手元にあるのは1998年の第34刷版です。
どこで買ったのかは、覚えていません。さーっと読み飛ばして、ああっ、あまり面白くないなぁ、という感想で終わったような気がします。
基本的に、人生は短いから、つまらぬ事をしていては、すぐ終わりになっちゃうよ、という内容の本です。こういう本はですね、若い頃に、せいぜい読みふけるべきもの、でありまして、老境に入った者は、読んでふむふむとなったところで、すでに手遅れ、「夕陽(せきよう)はすでに吾が西にあり」とこうなってしまいます。(笑)
まずは、本書の冒頭近くから。
『多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。』
すでにローマの時代に、兵役に従事するのは50歳まで、元老院議員は60歳までと、定年が決まっていたようです。今と違って、平均寿命は短かったと思いますが、何だか云ってることは、現代と同じですねぇ。
「暇になったらやる」というのでは、アカンというのです。若いうちから、刻苦努力して、打ち込めるものを探しておけと。
さらにセネカは、「そうかといって、つまらぬ事に打ち込んでもアカン」と云います。
つまらぬ事とは、金儲け、政治的野心、戦争熱、立身出世などなど、また酒や性愛に溺れるのはもちろん、怠惰でゴロゴロしてるのも、ダメなのです。
それじゃあ、何か趣味に走って、レアな銅器を収集したり、磨いたり、スポーツに興じる、将棋を指す、日光浴をする、自分の身だしなみに気を配る、歌を作ったり、聞いたり、習ったりする、食べ物にこだわる、はい、これらすべてが無駄であると。(笑)
それでは、文芸・文学に依って、有名作品の細部の考証に凝る、はたまた歴史上の有職故実の調査に憂き身をやつす、これまた愚の愚であると断じます。
いやぁ、気持ちよく一刀両断ですなぁ。
さぁ、それでは、いったい人は何に専念すれば良いのか、それは思索に耽ることであると、セネカは云う。
『万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きていると言うべきである。...彼らはあらゆる時代を自己の時代に付け加える。彼ら以前に過ぎ去った年月は、ことごとく彼らに付加されている。...他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる。...そこには自由に過ごすことのできる沢山の時間がある。われわれはソクラテスと論じ合うこともでき、カルネアデスと懐疑を共にすることもでき、エピクロスとともに安らぎを得ることもでき、ストア派の人々とともに人間性を打ち破ることもでき、またそれをキュニコス派の人々とともに乗り越えることもできる。』
セネカはストア派の哲人なのですが、ここでは懐疑派や快楽主義(エピクロス)についても、特段排斥する様子を示していないところが、流石です。
いったい、セネカという人、口では清貧を説いているが、自分は結構な金持ちで、権力も手にし、言行一致しない輩ではないか、と云われます。そういう傾向はまぁ、少し感じとれますが、彼の書くことに一理はあります。
さぁ、それで、みっちの場合、思索に打ち込んでおるのか、残念ながら「ノー」ですねぇ。やっているのは、セネカの云う、つまらぬ事ばかり。このまま『人生に何の実りもなく、楽しみもなく、心の進歩も何一つなく』終わるのか、ああっ、やっぱりこの本は老境にいたって、読むものではありませぬ。(笑)