『名前の考察は教養の始めである』エピクテートス「人生談義」第17章
『ソクラテスは在るもののそれぞれが何であるかを知っている者は、他の者たちにも説明することができると考えていた』クセノポン「ソクラテス言行録」第4巻第6章
アーシュラ・ル=グウィンUrsula Le Guin(1929-2018)さんが亡くなられたとのこと。
みっちは、かなり以前に、「ゲド戦記」というシリーズが面白いんだよ、と云われて第1巻から4巻までが合本になったペーパーバックを買いました。(お安いPenguin Booksです-記事冒頭の画像を参照)
そして、正直に云いますと、どうも興が乗らず、途中で投げ出してしまったのです。(汗)
その原因を振り返ってみると、こんなところでしょうか。
1.まず「ゲド戦記」という邦題シリーズ名にどうも惑わされて、読む前に変な先入観を持ってしまったようです。原題には「戦記」に類するような表記はありません。このシリーズは、魔法使いゲドの「成長記」のようなもので、どう読んでも「戦記」ぽくはありません。
2.そして、話の中心となるゲドなんですけど、彼は子どもの頃から何だか醒めていて、青年期にも熱情に駆られて道を踏み外すといった、ありがちな(笑)ところはありません。頭は切れるけど、冷たい感じの男です。こういう人物って、人に一目置かれるとか、それなりに評価されるってことはあるでしょうけど、男の子が「憧れる」対象にはなりそうもないです。(汗)
2'.アースシー・シリーズについて、ウィキペディア(英文)の記事には、Bildungsroman(よい訳がないので、ビルドゥングスロマン、「教養小説」ではあんまりでしょう)という語が見られました。みっちは、これは違うと思います。ビルドゥングスロマンって、やっぱり「ヴィルヘルム・マイスター」の系列でしょう。ゲーテのあの文学的香気は流石に無理としても、せめてその熱き熱情の片鱗くらいは欲しいです。みっちが見るに、アースシーには「熱さ」が感じられません。
3.例えばテレノン宮廷でのエピソードですけど、謎の「石」the Stoneの誘惑に打ち勝つのは良いとして、美しき王妃セレットが石の僕たちに殺されるのを見て、そのことに全く無感動(のようである)のは、これは英雄譚ではありません。また、こういうところは、やっぱり女性作家の作品だなぁ、という感じを強く受けるところです。(笑)
4.「名前」というものが、話の中で、大きな位置を占めます。「全てのものは名前を持つ」と師オジオンは云います。相手の名前を知ることが重要で、ゲドが魔法学校ロークを出ていく時にも、門番の名前が必要になります。それを手に入れるのには、しかるべきウィットが必要なんですが、この辺りのオチもどうも心に響くものがありません。
相手の「真の」名前を知ることに重大な意味がある、という設定にどうも無理があるような気がしてなりません。
ということで、このアースシーEarthseaシリーズに再度挑戦しようと思ったのですが、どうも道半ばで頓挫みたいです。ああっ、所詮みっちはル=グウィンさんとは、アースシー・シリーズとは、縁なき衆生のようであります。(汗)