カタリーナ・リゲンツァの1987年バイロイト「トリスタン」を聴く。1987年というのは、みっちにとって、特別の年でありました、の巻。(笑) |
ベルリンドイツオペラ(63年、多分この時だった)で来日した時、細君のワルーター・ベリーと一緒に来ていました。その後、離婚しています。日本に行くと、この時を思い出す(思い出したくない?)ので行かない、と語っていました。自伝にはおそらくこの話はしていないのでは。
80年にウイーンの引っ越し公演でクリテムネストラ(エレクトラ)を歌う予定だったんですが、やっぱり来ませんでした。がっかりしたのを覚えています。
ところで、ルードヴィッヒが歌うイゾルデとブリュンヒルデの録音ですが、「イゾルデの愛の死」はクレンペラーとのセッション録音があります。録音は63年ころではないかと思いますが、一応そつなく歌っていて聴けますが、高音部で声を出すところはやや無理していると感じます。
また、62年NDRのライブ(指揮はクナッパーツブッシュ)があり、クナッパーツブッシュを聴く盤ですが、ルードヴィッヒは「イゾルデの愛の死」、と「黄昏」の終結部分、「ブリュンヒルデの自己犠牲」を歌っています。録音がいいこともあって、クナッパーツブッシュの指揮は聴きものです。ルードヴィッヒはやはり、無理してうたっている印象は否めませんでした。舞台に立てば、どうしてもヴァルナイやメードル、ニルソンと比較されます。ルードヴィッヒはクンドリ、フリッカが一番合うのではと思います。
ルードヴィッヒ自伝読みたいです。著名な歌手なので、邦訳が出版されるのでは?、期待したいです。
中学生のころから、NHK-FMのライブを録音するのが念願でした。買ったのは74年ころ。
SONY TC6400(おぼろげな記憶です)、走行メカはデュアルキャプスタイン。これでセッセ、セッセとエアチェックしていました。修理を繰り返し、壊れて、買い替えたのも同じモデルチェンジ機。
しかし、次の買い替えのとき、オープンリールは生産中止。エアチェックする機器をなににするか悩みました。カセット、VHS、8mmビデオ(デジタル)などあれこれやって結局、DATに落ち着きましたが、DATの導入に躊躇し、遅れたのがとても残念でした。DAT発売されたときすぐ、切り替えればよかった。
あとの問題は、膨大な4トラックのオープンリールテープです。再生する機器がいります。やっと見つけたのはティアックX-10(10インチテープがかかる)。これしかなかった。ティアックはサポートが充実していたのは幸いでした。結局、重要な録音は、カセット、DATにコピーし、それらからPCでWAVファイルにしました。
ただ、元テープ(オープンリール)を処分してしまったのは、大失敗です。残しておけばよかった、といまだに悔やまれます。
クリスタ・ルートヴィヒの自伝で、日本のことはあまり出てきませんが、こんな個所がありました。
『日本で、私は沢山のホールで歌いました。1963年に、私は新しい東京の日生劇場で「フィデリオ」のレオノーレ役を、ベルリン・ドイツ・オペラのゲスト・アーティストとして歌いました。私はそれから27年経ってから、一連のコンサートを行いました。最初私は躊躇いました、なにしろ随分間を空けてのカムバックはリスクが大きいですから。全く新しい世代の方が私を初めて聴くことになるのです。
コンサートの前のプレス・コンファレンスでは、私が1963年に東京で歌った時には、まだ生まれてもいなかったようなレポーター達で一杯でした。でも、コンサートの聴衆はとても熱狂的でした。主要都市のどこでもそうでした。日本では聴衆の方たちは、ステージまで上がってこようとするのです。私が何度もお辞儀をして、コンサート・ホールを去るときには、いつも沢山の贈り物を受け取っていました。日本人の方はたくさん、たくさんレコードを買います。そして何時間もホテルのロビーでサインをもらおうと辛抱強く待つのです。日本ではまた、私は多くの美しい歌唱を聴きました。不思議なことに、テナーはほとんどおらず、良いメゾ・ソプラノが沢山いました。それらの歌手の殆どは、ウィーンのエリック・ヴェルバのところで学んでいたんですよ!』
ご承知でしょうが、クリスタの来日は1963年、1990年、1991年、1994年が全てだと思います。
以前にゾフィエンザールの記事にコメントいただいた方ですよね?
いつもありがとうございます。
はい、LPレコードの売れ行きは、すでに70年代に右肩下がりだったんですね。
>リゲンツァの黄昏、私も県民ホールで聴きました...
お仲間ですね。(愉)
この1987年の黄昏公演とほとんど同じキャストのプライベート録音盤を今手配中です。
届いたら、また懲りずにブログに感想を書こうと思っています。(笑)