なんたって、1951年のバイロイトの話をしなくちゃ、始まらないです。(笑)
以前にみっちの過去記事で、メードルのインタビュー記事を引用して、こう書いています。
『その時、突然ヴィーラント・ワーグナーがハンブルクへやってきました。彼はクンドリー役を探していると言い、私を聴いてみたいと言ったのです。
私はその日とても声が涸れていました、それでレモンを飲みました。そうしたら残していた声の全部を持って行かれてしまった。でも、どうにかして彼は聴きとったの、それで私は契約した。天にも昇る心地だった。私は自分がバイロイトへ行けるなんて夢にも思ってなかったのです。』
だが、実は話はもう少し先があったのだ。今回の『私の道』の5章『1951年のバイロイトとヴィーラント・ワーグナー』から。
『
さらに悪いことに、私は休憩中に熱いレモン・ドリンクeine heisse Zitroneを飲みました。それで喉を完全にやられたzumachenのです。
でも、ヴィーラントの対応はこうでした。私の声がひどいにもかかわらず、彼は聴いて、バイロイトの彼のプロダクションで私が何かできるかもしれないと感じたのです。
それで、彼は私をバイロイトのオーディションに招待しました。私は真冬にそこへ行きました。氷のように冷たかった。そしてバイロイトには暖房がないのでした!
私は夜の11時に冷たい部屋に立ち、クンドリーを歌いました。まるで生まれて初めてこれを歌うように感じました。でも彼は私を雇ったのです。なぜでしょう、私には分かりません。
僕が思うに、それはあなたの容姿のおかげじゃないでしょうか。(みっち注:これはVoigtのコメントです)
(笑って)はい、それはあるかもしれません。後になって彼が言うには、私のハンブルグでのポートレート写真を調べて、彼のクンドリーのイメージVorlageにぴったりだと思っていたのです。
それでも私は最初戸惑いました、なぜなら、私は自分の猫顔Katzenkopfが、ワーグナーのヒロインにはマッチしないと思っていたからです。でも、彼は全く違う意見でした、彼はそういう一般的な歌手の類型gängigen Sänger-Typusから離れたいと望んでいたのです。
彼は伝統とはきっぱり縁を切りder Tradition brechen、ヒーローやヒロインではない、舞台の上に人間を求めていたのです。
』
みっち注:Katzenkopfは正確に訳すと『猫頭』です。(笑)たぶん、メードルが丸顔で、目が大きいからだと思います。ドイツでは、『猫頭』なんて表現を、よく使うんでしょうかぁ。よく分かりません。それと、やっぱりドイツでも、ヒーロー・ヒロインは面長のイメージなんですかねぇ。(疑)
なお、次章はヴィーラント・ワーグナーがマルタ・メードルのことを書いているのですが、その中で、彼女を『スラブの猫頭』"slawischer Katzenkopf"と評しています。(汗)
彼女の容姿は、ワグネリアンが求めるケルトやゲルマンの理想の、「高貴でクラシックな」ものではないが、私のプロダクションには、彼女のようなモダンな顔立ちが相応しい、という論調です。
ここで伝統というキーワードが出たので、古き伝統を重んじる、「あの指揮者」に話は移ります。(笑)
『
それとよい対照として、指揮者で古い伝統を重んじる人が、「パルジファル」のハンス・クナッパーツブッシュですね。
クナッパーツブッシュは巨人Rieseでした、彼は風車のような腕を持ち、ひとたび立ち上がって腕を伸ばすと、あのオーケストラの終わりのないクレッシェンドが来たのでした。
あなたは、どうやって彼の幅広いテンポに合わせましたか?
幸いなことに、それは単に遅いのではなく、常に表現と合致しているのです。そしてオーケストラのテンポを保つ技は芸術でした。今日の多くの指揮者は、速いのですが、それは彼がそう望んでいるからではなく、オーケストラを止めることが出来ないからです。
クナッパーツブッシュの二年後に、クレメンス・クラウスが「パルジファル」を振りますが、あれはもっと速かったですね。
それが、彼のペースだったのです。彼はもっと速く振りましたが、それは彼がそのように望んでいたからで、彼がそれ以外できなかったという訳ではありません。
あなたはクナッパーツブッシュと何か個人的なつながりpersönliche Verbindungはありましたか?
いいえ、全然。私は彼とは仕事だけでした。私の記憶では、あの頃彼と個人的な会話をしたことはありません。私は、長年、彼が私のことを評価しているschätztのかどうかも分かりませんでした。
何はともあれ、ここに彼の写真があり、それには「私の素敵なクンドリーへ」という献辞がありますね。僕は、彼が歌手みんなにこんな献辞を書いているとは、とても想像できませんよ。
ええ、彼は本当に、サインどころか、カーテン・コールに立つのも嫌いでした。そうね、やっぱり私は評価されていたと信じます!dann darf ich mir was drauf einbilden!
』
続いて、バイロイト・デビューの感想を聞かれて、こう答えます。
『
私は全く不安を抱かず、恐れもなく、躊躇いも疑問もなく、ただ幸福感のみがありました。そしてそれは5年も6年も続いたのです。私はヴィーラントと共に芸術性を理解されたことに、言いし得ぬ歓びを感じます。
』
ヴィーラントの革命的な舞台に、まったく疑問を持たず、それに心から打ち込む姿が目に浮かびます。これを革命と意識していたか、と問われて、こうです。
『
それは新しい革新であり、それが古いワグネリアンと衝突するだろうとは、我々はよく認識していました。我々は若かったですが、各々が古い舞台の伝統を経験していました。例えば、私はスカラ座でフルトヴェングラーの指揮でクンドリーを歌いましたが、舞台には書き割の背景やら多くの花がありました。そういった虚飾はヴィーラントにはなかった、不要なガラクタBrimboriumだった!
(ヴィーラントの舞台に)あったのは、ほとんど空の円盤の舞台だけでした。
』
ちなみに、ここでメードルが語っているフルトヴェングラーの「パルジファル」は、1951年3月24日-4月4日の公演です。この公演の録音は見たことがありません。
はい、すごく長くなってきたので、一旦ここで切りましょう。
記事冒頭の写真は、言うまでもなく、マルタ・メードルとヴィーラント・ワーグナーです。
次の写真は、ヴィーラントがメードルに贈った献辞の現物です。これは有名ですね。
手書き文字の解読はこうなります。
『
Kundry!
Brünnhilde!
Isolde!
"Keine wie Du"
Frau Mödl zur
Erinnerung an
1951-1960
(so wie es war, wird es nie mehr....)
von ihrem deank-
bahren Verehrer
Wieland Wagner
』
『
クンドリー!
ブリュンヒルデ!
イゾルデ!
「あなた以外には誰もいない」
フラウ・メードルの1951年から1960年の思い出に寄せて
(それはまさにそうであった、もはや二度とないだろう...)
あなたの崇拝者
ヴィーラント・ワーグナー
』
手書き文字の解読には、ロシア語の掲示板で交わされていた情報を参考にしました。いやぁ、色々な国の人がこの『私の道』を読んでいるんですね。(驚)
なお、deank-bahrenは意味不明です。読み方が間違っているのかもしれません。
どなたか、良いアイデアがあれば、ご教示ください。
以上長くなりましたが、第2回の紹介は終了です。