さて、さて、これが『ベートーヴェン訪問』ですぅ |

『ベートーヴェンは本当にドン・ジョヴァンニの不道徳に憤ったか?』
この本はDover Publicationsの1967年版で、オリジナルはG.Schirmer, Inc.の1926年版だという。その省略・変更なしの再版だという。
一方、みっちが昔読んだのは、これではなくて、
『ベートーヴェン訪問』M.ヒュルリマン編 酒田健一訳 白水社
であった。冒頭の写真が、外箱の絵です。
原題は、
Besuch Bei Beethoven: Aus zeitgenössischen Berichten und den Konversationsheften zusammengestellt by Martin Hürlimann 『ベートーヴェン訪問:同時代の記述と会話帳から編纂』
これは素敵な本だと思うのだが、世間ではあまり有名でないようで、とうに絶版。横浜図書館にもない。ドイツ語本で、頼りの英訳もなさそう。(嘆)
よって、この酒田健一さんの訳書だけが頼りです。
もう、かれこれ、40年ほど前に、みっちは新本で『ベートーヴェン訪問』を買った。その後、その本はどこかへ行ってしまったか、あるいは見つからないので(最近よくあるのだ-汗)再び古書で買い直したという訳。
その理由は、Dover本より、ずっと面白いからである。これに尽きる。
ところで、なんで、みっちがこんな本を知っているかというと、五味康祐の『天の聲-西方の音-』の『ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 作品131」』の項に引用されていたから。
五味康祐の著書の、当該部分を全文引用する。
『
ルードウィッヒ・クラモリーニなるテノール歌手は又、こんな回想を述べている―
《私は晩年のベートーヴェンにいちどだけ交渉をもった。それも母のすすめによった。1826年(死の前年)の12月15日か16日だったと思う。私はすでにテノール歌手として帝室=王室オペラ劇場の舞台に立ち、女流歌手ナネッテと婚約していた。このナニーがうっとりするほど見事に演じた『フィデリオ』の幕がおりたとき母は言った。「あの昔の気むずかし屋の熊に、こんなすばらしい音楽が書けるとは夢にも思わなかったわ。」そういえば母はそれまでベートーヴェンを聴く機会がまったく無かったのである。
「とにかく一度たずねてごらん」と母は言い足した。「たぶんベートーヴェンは私たちのことを覚えているよ。もし思い出さないようなら恩知らずというものさ。でもそんなことはあるまいと思うね、なぜって『フィデリオ』を聴けばはっきりわかるわ、あれほどものを深く感じる人が善良な心をもっていないはずはないもの。これは間違いないところさね。」ナニーも一緒になって私をたきつけ、これを機会に自分もベートーヴェンにひと目会いたいとせがんだ。そこで私は承知した。当時ヨーゼフシュタット劇場の指揮者をしていたシンドラー氏に相談し、ベートーヴェンにクラモリーニ夫人の息子で、昔はずいぶん彼に迷惑をかけたが、いまでは彼の不滅の作品を理解し崇拝するまでに成長しているあのちびのルーイを思い出させてほしいとたのんだ。数日後、シンドラー氏は私に言った。ベートーヴェンは私たちの訪問を喜んで待っている、しかし彼は私たちをベッドに寝ながら迎えてもそこは大目にみてもらいたい。それから楽譜を持参するように。
こうして12月のあの日の午後、私たちはベートーヴェンの家に向って馬車を走らせた。私たちが部屋に入ったとき、気の毒な人は水腫に苦しむ体をベッドに横たえていた。彼は大きく見ひらいた輝く目で私をみつめ、やがて微笑を浮かべて左手をさしだし、「これがあのちびのルーイなのかい。おまけに今じゃ婚約までしたそうじゃないか」と言い、ナニーに向ってうなずくと、「かわいらしいカップルだ、りっぱな芸術家夫婦だ。ところで母上はどうしていられるね?」―そして私たちに紙と鉛筆をさしだすので、それ以後の会話を私たちは筆談で進めた。それに対してベートーヴェンの方は時々聞きとりにくい言葉で話した。やがて彼は何か私たちに歌うように所望した。シンドラーが部屋の中央に並んでいた二台のフリューゲルのひとつに坐ると、私はベートーヴェンに向いて書いた。
〈”アデライーデ”を歌いましょう、私が歌手の世界で名を知られるようになったのもじつはこの曲によってなのです。〉ベートーヴェンはうなずいたが、私がいざ歌おうとすると不安のあまり口やのどが渇き、どうしても声が出ない。私はシンドラーに、落ちつくまで暫く待ってほしいと言ったら、ベートーヴェンは、どうした、なぜ歌わないのかとたずね、シンドラーが理由を書いてみせると、大声で笑い、「とにかく歌いなさい、ルーイ君、残念ながら私には何も聞えないのだ。ただ君の歌うところを見たい」と言った。ついに私は勇気を出して、リートの中のリートともいうべきベートーヴェンの素晴らしい”アデライーデ”を真の感激にひたりながら歌った。ベートーヴェンは私をベッドのそば近く招き寄せ、親しみをこめて私の手を握って「よく歌ってくれた。私は君の息づかいを見て、きみが正しく歌っているのを知った。きみの目つきを読んで君がよく理解して歌っているのを知った。ありがとう」私はこの偉大な人の口からこのような批評を受けたことに狂喜し、あふれる涙をぬぐった。》(酒田健一氏訳より)
何というやさしいニヒリストか。このあとベートーヴェンは『フィデリオ』の中のレオノーレのアリアを、ナニーが歌うのを聞いてその歌唱力を褒め、私の愛するフィデリオよ、さようなら。ちびのルーイよ、さようなら。君たちを寄越して下すった母上に感謝します、そう言って、やはり疲れたと言い、くるりと二人へ背を向けてしまう。
ベートーヴェンに何がいったいこの時聴こえていたのか。それを想わずにどんな作品131の聴きようがあろうか。
』
酒田健一氏訳の原文は、もう少し長いのだが、うまく端折って、まとめている。流石である。みっちは40年前オーディオ・マニアとして、五味氏の文章に、当時は痛く感銘を受けていたのである。
さて今回は、ルートヴィヒ・クラモリーニLudwig Cramolinの回想の元資料らしきものを見つけたので、その報告。
Web上の記事は、これで、
クラモリーニの肖像画も載っているので、是非ご覧あれ。
元資料そのものは、これ。
『彼をよく知る者から見たベートーヴェン像』という表題の、ニューヨーク・タイムズ1907年10月20日記事である。
それによると、
『フランクフルト・ツァイトゥングFrankfurter Zeitungが今まで出版されたことのないルイ・クラモリーニLouis Cramoliniの日記を出版した、彼は1884年にダームスタットDarmstadtで亡くなったが、テナー歌手で、後には宮廷劇場Court Theatreの支配人であった。』
となっており、どうも元記事はフランクフルト・ツァイトゥングで、このニューヨーク・タイムズ記事はその英訳らしいと分かる。
酒田健一氏訳の文章と、大要同じだけれど、細かい点で少し異なる。
また、ベートーヴェンが亡くなった後の記述は、酒田健一氏訳の方には含まれていないので、ここに紹介しておきましょう。
『
クラモリーニはベートーヴェンの死を翌年の3月の27日に知った。彼は喪に服す家に急いで向かった、そこでは見知らぬ人々の群れが、著名人の死を見ようと集まっていた。巨匠はベッドの上に、顔も覆われないまま、横たわっていた。ある老婆が彼の髪の一房を切り取ると、群衆の中に消えた。
クラモリーニは、シンドラーの腕の中に身を投げて泣いた。彼はその夕に”La Dame Blanche”(みっち注:『白衣の女』オペラ・コミークの一つです)で歌わねばならなかったが、なんとか時間を見つけて葬儀で歌うダブル・クァルテットを集めた。そして葬儀の式辞をグリルプラツァーGrillprazerに頼み、小さな区画を買って、ベートーヴェンがモーツァルトのように、共同墓地に葬られたりしないようにした。
彼は、他の芸術家と一緒に、この偉大な人の棺をTorhalle(Gatehall)から小さきものの教会the Church of the Minoritiesまで運んだのである。距離は、たかだか1000歩ほどであった。彼らはそれに1時間ほど要した、 群衆が多かったからである。クラモリーニが言うには、20,000人以上の人と、100台以上の馬車の行列だったのだ、その中には宮廷の馬車もあった。
遅すぎた敬意。何年もの間ベートーヴェンは、彼がウィーンにいる間約束された年金を、受け取っていなかったのである。
』
はいっ、今日は少し長くなりました。以上です。

