いよいよハンス・ホッター回想録もお終いかぁ。第5弾です。 |
デイム・ギネス・ジョーンズDame Gwyneth Jonesとジェームズ・キングJames King(米国のテナー)を初めてバイロイトへ連れて行って、ヴィーラント・ワーグナーに紹介したのは、ハンス・ホッターである。
『私は、彼ら二人を自分の車に乗せて、バイロイトまで運転した。そこで、私はヴィーラント・ワーグナーにオーディションをするように薦めたのだ。
私は、このウェールズ生まれのその頃全く知られていなかった、ソプラノの名前を初めて告げた時のヴィーラントの最初の反応を、決して忘れないだろう。「彼女の名前は何だって?ギネス?そんな名前の歌手がバイロイトで歌うなんてありえないよ!」
それが、ありえたのである。その後の経過はご存知のとおりだ。』
この本のカバーの裏表紙に、何人かの推薦文が載っているが、ここにデイム・ギネス・ジョーンズの言葉もあり、上記を裏付けている。
『1965年に(ロンドンの)ロイヤル・オペラ・ハウスが私をミュンヘンのハンス・ホッターのところへ送った。私が初めてジークリンデを歌うための準備のためである。彼の居間で一週間練習したのは、それは素晴らしい経験であった。さらに私を興奮させたのは、彼がバイロイトへ一緒に行って、ヴィーラント・ワグナーの前で歌わないかと誘ってくれた時である。彼は自分で私を祝祭劇場まで運転し、オーディションの結果、私はそこでジークリンデを歌うこととなったのである。』
みっち注:デイム・ギネス・ジョーンズがバイロイトで最初にジークリンデを歌ったのは、1966年の「ワルキューレ」である。(
ジョーンズは、その後バイロイトに継続して出演し、前に採り上げたことのある、カタリーナ・リゲンツァの1971年の指輪でも、ジークリンデを歌っている。(ホルスト・シュタイン指揮)
その後1974年、75年からはブリュンヒルデを歌い始め、1976年からは、言うまでもない、パトリス・シェローとピエール・ブーレーズの革新的な「指輪」公演で、ブリュンヒルデを歌い、一躍有名になっていくのである。
過去記事:
『カタリーナ・リゲンツァはタイムトンネルか。みっち珍しく、過去の追憶に沈む(汗)』
オットー・クレンペラー:エピソード⑪(第9章164頁)
クレンペラーというと、エピソードは、それ、「女」のことと決まっている。(汗)
過去記事を参照して下され。
『オットー・クレンペラーの情熱は、いかなる方面に費やされたか?(笑)』
場所はケルン、西ドイツラジオ・ネットワークの大きなホールである。そこでクレンペラーはベートーヴェンの第9交響曲を指揮し、ホッターはソリストとして参加していた。
『私は娘のガビーGabyと一緒だった。彼女はその時18歳で、とても魅力的な若い娘だった。彼女は当然リハーサルに付いてきて、クレンペラーの指揮ぶりや仕草に見入った。とても感銘を受けたのだ。もちろん私は、彼のエキセントリックなところを説明した、それがさらに彼女の好奇心を呼んだ。
彼女はほとんど空のホールの2番目の列に座り、私は、4人のソリストの一人だから、とても背の高いこの指揮者の隣に位置していた。
言うまでもないが、私が娘と交わす目くばせは、クレンペラーの目に止まった。
彼は指揮を続けながら、観客席の方に半ば振り向き、魅力的な娘を見つけて私の方に向き直ると、演奏中なのに「あはぁ!」とか「ほう、ほう!」とか、可笑しな声を立てて、娘を何度も見た。
リハーサルの後、彼女は、最初は私と一緒に、彼の化粧室を訪ねるのを、何しろ彼の可笑しな行動を見ていたので躊躇ったが、結局一緒に来た。マエストロはアームチェアでくつろいでいた。
「娘を紹介してもよろしいでしょうか、ヘル・ドクトール?」と私が切り出すと、クレンペラーは、断固とした口調で、「ノー」と叫んだ。娘はびっくりして、部屋を出ようとしたが、私がは押しとどめ、もっと大きなしっかりした声で、「ヘル・ドクトール、これは私の娘で、あなたにご紹介したいのです」彼が何も云わないので、私はガビーに手を回して、繰り返した。「いいですか、ヘル・ドクトール、これは本当に私の娘なんです」やっと彼は親しげな笑顔を見せると、左手を差し出して、猫みたいにソフトな声で、「何を考えているんだか?私はてっきり、彼女が君と特別な関係なんだと思ったよ」』
みっち注:ガビー(ガブリエラGabriele)は、その後シュトラウス夫人となる。彼女の夫の名は、リヒアルト・シュトラウス、そう、あの偉大な作曲家の孫である。
写真は本文と無関係。
京都、退蔵院(妙心寺塔頭)のお庭(余香苑)である。京都には、見事なお庭は多いが、この退蔵院のお庭は、みっちが特にお気に入りの場所である。撮影は昨年の6月14日。ああっ、今年は京都へ行っていないなぁ。(汗)
カメラは例によってニコンD800E、Ai AF Nikkor 20mm f/2.8D、絞りF11、1/250、ISO800、露出補正なし。この20/2.8は銀塩時代からある古いレンズで、当時でも他メーカのレンズに比べてコンパクトであった。(その頃、みっちはキヤノンだったので、うらやましかった覚えがある)この位絞り込めば、D800でもまず問題ない。拡大して見て下さい。
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1966年の指輪は3サイクルのうち、ベームが振ったのは1サイクルのみ、あとはズイトナーです。ジョーンズは、このズイトナーの2サイクルのワルキューレでジークリンデを歌い、ベームの下では歌っていません。(Leonie Rysanekが歌っています)
1967年では、指輪はやはり3サイクルですが、ベームはワルキューレと神々の黄昏のみを指揮、それも3サイクルのうち2回だけです。あとはズイトナーが指揮しています。
ここからは、みっちの想像ですが、1966年のワルキューレと神々の黄昏には、音楽的に問題があり、Phillipsが無理を言って、これだけを翌年ベームに振らせたのではないでしょうか。
あと、solarisさんが聴かれたワルキューレ第1幕の件ですが、1965年のベームのワルキューレでは、ジークムントはヴィントガッセンなんです。1966年、67年はジェームズ・キングです。みっちが想像するに、solarisさんは1965年の放送を聴かれたのではないでしょうか。この1965年のベームのリングは、海賊版があったように思います。
1965年のリングでは、ヴィントガッセンがジークムントもジークフリートも歌っています。ヴィントガッセンのジークムントは珍しいですよね?さぞ良かったろうと、みっちも思います。
solarisさん、それと、バイロイトでは指輪公演は、1963年以降3サイクルが普通だと思います。
例えば、今年2013年は、1回め7/26-31、2回め8/14-19、3回め8/22-27です。
今年は新プロダクションの始まる年なので、ラインの黄金が一回(8/10)余分にあります。
最近の実績です。
2011年、2012年は指輪公演なし。
2010年3サイクル
2009年3サイクル+神々の黄昏
2008年3サイクル+ジークフリート
2007年3サイクル+ワルキューレ
2006年3サイクル+ラインの黄金
2005年指輪公演なし
はい、このバイロイト祝祭劇場のサイトは、とても頼りになります。
http://mitchhaga.exblog.jp/19808208/でも触れました。
アストリッド・ヴァルナイの回想録が、昨日の夜届いたので、今読んでいます。
なかなか強烈な個性の方のようですね。(汗)
しかし、なかなか面白いです。例によって、面白そうな部分を、拙ブログで紹介しようと思っています。
ヴァルナイの本では、なぜか「神々の黄昏」のワルトラウテ役のオファーがあったという話になっており、その役(メゾ・コントラルト)は未だ時期尚早なので、断った、ということになっています。
まあ、このあたりは、いずれブログで詳しく採り上げましょう。