エーコのプラハの墓地を読んで、紙の本の行き着く先を考えてみるのだ |
まあ、それは一面では事実である。パソコンは、まだそんな名前で呼ばれていなかった頃から、もう30年以上の長きにわたり、良き友である。
だが、電子図書というジャンルに関しては、みっちは手放しでは受け入れていない。それは、紙の本をどう考えるか、という問題と深く関わっているからだ。
そこで、ウンベルト・エーコの『プラハの墓地』である。エーコについては、もうすでに多くのことが語られている。まあ、万一あまりよくご存じない向きは、ウィキペディアのウンベルト・エーコの項あたりを参照して頂ければ、多少は分かってもらえるのだろうか。
『プラハの墓地』を読む、これは一つの挑戦である。どう挑戦かといえば、それは『分からない』からだ。
分からない、というのにも色々な意味がある。マルティン・ハイデガーの『存在と時間』も分からない本であるが、これはその哲学的思考についていくのが困難であるからだ。
プラハの墓地はちょっと違う。そこに哲学的思考があるようには、見えない。少なくとも表面的にはだ。
まず圧倒されるのは、その衒学趣味(ペダントリー)である。プラハの墓地の読者の内で、19世紀のパリの街並みに詳しい人は、どの程度いるのだろう。
舞台に設定された時代は1897年となっており、極東の小国わが日本では、日清戦争勝利の興奮がまだ冷めやらぬという頃だ。みっちの祖母は明治生まれで、子供の頃の日清戦争終結時の提灯行列のことを覚えていて、よく話をしてくれた。まあ、確かにそれほど大昔の話ではない。
しかしである、その頃のパリのちょっといかがわしい隠避な路地群を、rue Maitre-Albert、rue Saint-Severin、rue Galande、rue de la Bucherie、rue Saint-Julien-le-Pauvre、rue de la Huchetteを、どれだけの人が詳しいのだろうか。
Chez Magnyという安レストランは、Foyotのような高級レストランとは比較にならないということを、どれだけの人が知っているのか。
いや、恐らくそれらは、本題に入っていく前のアペリティフ(食前酒)に過ぎず、続く2章でヨーロッパ各国人の、そしてユダヤ人の、能力・気質・生活ぶりの、あまりなステレオタイプstereotypeな批評も、(『ライン川の向こう側は、芸術分野では何も見るべきものはないのさ、不愉快な肖像画のいくつかと、死ぬほど退屈な詩以外はな。』)すべては、本題のシオン賢者の議定書(プラハの古いユダヤ人墓地でシオン賢者の集会が開かれ、この議定書が作られたという)をめぐる到底信じられない、正気の沙汰ではない、しかし事実であるこの一連の歴史を、小説の形にまとめ上げる、その一連の準備なのだろうか。
原著のあちこちに散りばめられた挿絵群、頻繁に登場する歴史上の人物たち、ジョセッペ・ガリバルディGiuseppe Garibaldi、アレクサンドル・デュマAlexander Dumas、フロイトSigmund FreudらしいFroïdeなる医師、その他もろもろの固有名詞たち、ああっ、これは本当に紙の本でなければ実現できないものなのか、あるいはインターネットの海の上に(例えば)HTML文書のような形で、浮かばせたほうが、よほど正しい方向なのではないのか。
みっちにとって、なぜエーコがこのような小説を書くのか書いたのか、それが彼には必然だったのだろうが、疑問が次々に沸き起こる、エーコのこの小説を骨の髄まで楽しむためには、もう紙の形では、それがいわゆる注釈書の形態をとったとしても、まるきり不可能な話なのではないか。
100インチほどの巨大なディスプレーにこのテキストを表示させ、その周りにこうした引用を、参照を、暗示を、体験を、同時に表示させて進行させねば、体感不能ではないのか。
そんな感覚を感じる。エーコの進む先には、もう紙の本はなく、電子の海が広がっているような気がするのだ。
以上(今日の話しはちょっと分からない?-汗、そうかもしれない)
写真は、エーコの『プラハの墓地』、ペーパーバックの表紙です。もちろん英語版。ああっ、これがイタリア語で読めたら凄いのだが。
そうそうこの本は、『みっち流毎日のお勤めの儀式』でも軽く紹介しましたね。
『プラハの墓地』(日本語版です)をようやく今日読み終えた者です。
『薔薇の名前』(これも日本語版です)は、大学時代に図書館で借りて読みました。
高校時代にショーン・コネリーが演ってたなぁ、観なかったけど…と手に取り、
下宿で 上下巻を一気に読んだ記憶があります。
手もとに置いておきたくて、ソク本屋で購入。
以来何度も読み返し、高校生になった息子達も数回ずつ読み返している我が家の愛読書です。
もうボロボロで、東京創元社さん、どんな事情があるかしらんけど文庫化してよー、
でないと外出に持って行くのに、本が壊れるよーってぐらいの…。
ウンベルト・エーコの訃報と同時に『プラハの墓地』の出版を知り、すぐ息子に買ってきてもらいました。
で、息子1が読んで、私が読んで、すでに5月も半ば…そういうことです。
イタリアやフランスの方なら、歴史的背景が一般常識としてあるだろうから、もっとスムーズに
作品世界に入れるのかなぁ。
みっちさんの「電子の海にテキストを浮かべて…」というお話は、だからとても納得でした。
そういう作品の提示の仕方で、フーコが見せようとした世界を読み手が体感する。
見てみたいです。
「偽書」が成立する過程は興味深かったです。
とりあえず、背景と人物をさらって、もう1回読むかなーと思います。
『プラハの墓地』読了されましたか。
この本のペダントリーは、欧米の読者であっても、簡単にはついて行けない内容じゃないでしょうか。特にイタリアの近代史は大変ですよね。
みっちの個人的意見としては、背景の構築にあまりに力が入りすぎて、『小説』としての『愉しさ』が疎かになったと感じます。
はい、もちろん『薔薇の名前』は大変面白かったです。その面白さは、ペダントリーの深さにあったのではなく、やはり『小説』としてのプロットの出来です。
シャーロック・ホームズを思わせる『バスカヴィルの』ウィリアムなんて、魅力的な登場人物を『創作』したことに依ると思います。
『薔薇の名前』は☆☆☆☆☆ですが、『プラハの墓地』はいいとこ☆☆☆かな。ひょっとして、イタリア近代史を深く研究することがあったら、再読したいとは思いますが。(笑)