息抜きに「図説西洋建築史」(2005年)彰国社刊をパラパラと、の巻。 |
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2020年 12月 13日
まずはこの前書きのとおりの本であります。扱っている範囲は、この目次の写真を見て頂くと、一望できるでしょう。 どこから読み出してもよく、どこを読んでも驚きと発見があります。実に愉しい本であります。惜しむらくは、もう少し図版が大きくて精細だったらなぁと思いますが、そうすると本としてのヴォリュームが大きくなり、価格も高くなってしまったでしょう。まぁ、これ位が適度の妥協なのかもしれません。 いずれにせよ、「西洋」(ヨーロッパプラスαです)の建築について概観するには、適切な本です。興味ある方には、強くお薦めいたします。 #
by mitch_hagane
| 2020-12-13 08:52
| 5.本
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2020年 12月 12日
「集団責任」について: まず前提として、「個人の責任」は「政治的な責任」とは異なることを、認識します。 「すべての政府は、それ以前の政府のあらゆる行為と錯誤に、政治的な責任を負います。」「国家については、すべての世代は、歴史的な継続のもとで誕生したという事実によって、その父親の世代の罪を背負い、祖先の行為の恩恵をこうむるのは当然のことです。」 しかし、個人の責任はこれとは異なり、「わたしたちが父祖の罪について、自国の国民の罪について、人類の罪について、すなわちわたしたちがみずから実行しなかった行為について、罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけ」であり、「まだ若く、戦争中に何かをなすことはありえなかった世代の青年たちが、罪を感じると主張するとしたら、その青年たちは間違っているか、混乱しているか、知的なゲームを演じているのいずれかなのです。」 その上で、ハンナは「ドイツの国民とその集団的な過去に初めて適用された集団責任の概念には誤謬がある」と言います。これは「すべての人に罪があるのであれば、誰にも罪はないことになる」からであり、「この概念は実際には、悪しき行為を実行した人々をきわめて効果的に免責する結果となった」と断じるのです。 私たち全員に罪があると感じるのは、一見、謙虚な姿勢に見えて、実はそうではない、批判されるべきものを覆い隠してしまうのだ、という指摘です。 「歯車理論」について: 歯車理論というのは、云うまでもなく、自分は取るに足らない小さな歯車であって、他者に変えうることができるもの、私の地位にあれば誰でも同じことをしたでしょう、私ではなくシステムが実行したのです、と弁解することです。 これに対する答えは明快で、あなたはなぜ歯車になったのか、なぜ歯車でありつづけたのか、と問うことです。 政府が合法的なものとしていたことが「犯罪」であった場合には、被告は手を染めるべきではなかった、と求められるわけです。そうなると、「不参加が基準」となるわけですから、「政府の犯罪に手を染めずにいられた人、法的な責任と道徳的な責任を問われずにいられた人は、公的な生活から完全に身をひいた人々、いかなる種類の政治的な責任も拒んだ人々だけ」であった、ということになります。 これがはたして常人に可能な業であるのか、議論があるところです。だれもが聖人や英雄であるわけではないのですから。この話は、次の項の話に密接に繋がります。 「より小さな悪」選択について: これは前項の議論を踏まえていますが、これもよく使われる言い訳の1つです。 ハンナが一例として挙げるものはこういったものです。「(わたしが)職務を離れなかったのは、さらに悪い事態が起こるのを防ぐためだったのです。内部にとどまった者だけが、事態を悪化させないことができ、少なくとも一部の人々を助けることができたのです。...何もしなかった人々は、どんな責任も自分のことだけ、自分の大切な魂の救済のことだけを考えていたのです。」 あと一つあるのですが、これです。 「(兵士が)命令に服従しなければ、軍法会議にかけられて射殺される。しかし命令にしたがえば、判事と陪審員によって絞首刑にされる」というジレンマについて: さて、これについては、関連する判例として、アイヒマン裁判の判決文でも触れられている「クファル・カセム村アラブ人住民虐殺事件」(1956年)というのがあります。ハンナは、このジレンマをどうとらえていたのか、正確には分かりませんが、アイヒマンの事例はこれに準じるものとは考えていないようです。兵士たちはイスラエル法廷で有罪となりましたが、1年以内に恩赦されています。 また、この事件を日本語で解説したものは、ネット検索では見つけられませんでした。ですので、英文Wikipediaの記事を挙げておきます。 (ごく雑な要約はこんな感じです、詳細は原記事を当たってください これは1956年10月29日に起きたイスラエル国境警備隊(マガヴ)による、アラブ住民虐殺事件(48人死亡、内女性6人、子供23人)です。この日はイスラエルとエジプトとの第二次中東戦争の開始された日(シナイ作戦)であることに注意する必要があります。イスラエル領内のアラブのカセム村は、この日から夜間外出禁止令下に置かれたのですが、朝早くから働きに出ていた住民たちはそのことを知らされていなかったのです。夕方仕事を終えて村に帰ってきた住民は、(すでに外出禁止時間となっていたので)兵士の銃撃を受けます。銃撃が終わった後も、外出禁止令下であるため、助けることが出来ず、死者も負傷者も翌朝まで放置されました。現場の指揮官は事前に、上官に指示を乞いましたが、その命令は明快でした。「感傷的になるつもりはない、また逮捕は望まない、逮捕はあり得ない」そしてアラブ語で「Allah Yarhamu」(神よ慈悲を垂れたまえ−死者へのお悔やみの決まり文句)と言ったとされています。なお、同日カセム村以外の村でも同様の状況があったのですが、そこでは兵士たちが命令に従わなかったので、発砲は起きていません。) まだ、話は緒に過ぎないのですが、今回の話は、ちょっとみっちに荷が重いです。少し休憩することにして、途中ですが、これまでにしておきましょう。記事冒頭の画像は、近所の風景なんですが、超広角レンズで撮ると、いつもとは違って見えます。 #
by mitch_hagane
| 2020-12-12 20:23
| 5.本
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2020年 12月 11日
ハンナ・アーレントと云う人、意外であったのは、彼女の名前は日本でかなりポピュラーである、ということですね。どうしてなんでしょう。少し理由を考えてみました。 1.文章が難解でなく分かりやすい。まぁ、ハイデッガーの「存在と時間」なんかと比較しちゃあいかんのでしょうが、理詰めの文章で、とにかく読みやすいです。 2.古典哲学や文学について、一刀両断の明快な批評があり、これを読むと愉しくなってきます。いやほんとうに頭の切れる人です。賛嘆いたします。みっちは、他人の賢さに感心することがあまりない(不遜だから−笑)のですが、彼女は特別も特別、その博覧強記ぶり、その思索の鋭さ、どこをとっても他の追随を許さない物凄さがあります。 3.そしてこれは著者がもっとも嫌うところでしょうけれども、女性の(それもなかなか魅力的な)哲学者である、ということですね。 あとそうそう、「ハンナ・アーレント」という劇場映画(2012年)が公開されています。これが効いているのかな。この映画、みっちは未視聴なんですが、やはり「イエルサレムのアイヒマン」が大きなテーマのようですね。 さて、それで「イェルサレムのアイヒマン」は、ハンナがアイヒマン裁判を傍聴し、ニューヨーカー誌に連載した記事なんですが、まずは基本的な知識を確認しておきましょう。アドルフ・アイヒマンは第二次大戦中、『ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者』(ウィキペディアから引用)でありました。1960年5月11日アルゼンチンに潜伏中だったアイヒマンは、イスラエルの情報機関モサドに拉致され、イスラエルへ移送されます。裁判は1961年4月11日に始まり、1961年12月15日に死刑の判決が下され、1962年6月1日未明に絞首刑が執行されます。 ハンナは1962年夏から秋にわたって本書を執筆し、翌1963年2月3月の「ザ・ニューヨーカー」誌に掲載されました。その後すぐ1963年5月にアメリカで出版されています。(ちなみに日本で最初の邦訳が出たのは1969年です-「イェルサレムのアイヒマン」の初版) さて、それで「イェルサレムのアイヒマン」を読んでいるのですが、「知らなかったことは多いが、どれも意外な感じはまったく受けない」というものです。ですから、ハンナが書いている、この本が「まき起こした嵐のような議論」というのが、さっぱり実感できないのでした。この時代は、みっちにとってリアルタイムで経験したはずですが、関心を惹かなかったのでしょう、さっぱり記憶にはありません。 副題の「悪の陳腐さについての報告」の意味合いがちょっと分かりにくいかと思うので、少し補足をしておきましょう。ハンナ自身が本書の「あとがき」で書いていることです。『アイヒマンはイアゴーでもマクベスでもなかった。...自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかには彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。...彼は愚かではなかった。完全な無思想性-これは愚かさとは決して同じではない-それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしてみても、これは決してありふれたことではない。...このような現実離反と無思想性は、人間のうちに恐らくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ-これが事実イェルサレムにおいて学び得た教訓であった。』 アイヒマンがですね、「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)を体現するような思想を持ち、悪の権化のような悪漢ぶりであったなら、こうは議論を呼ばなかったのでしょう。アイヒマンの実像は、まったく普通の人であり、その仕事ぶりには悪魔的な要素はなにもない、単なる一介の「能吏」という感じであった、その日常ぶりが数百万人のユダヤ人殺戮と際立った対照を見せます。 この「ユダヤ人の殺戮」について、アイヒマンはこう弁明しました。 「私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺してない-そもそも人間というものを殺したことがないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人への殺害を命じたことはない。...たまたま-私はそんなことをしなければならぬ立場になかったのです。」彼が認めたのは、「ただユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけでありました。 これに対する判決文はこうです。アイヒマンの行動が勧誘・幇助に留まったことを認めた上で、こう結論します。 「われわれが今見ているような、さまざまのレヴェルにおいて、また各種の活動領域にわたって多くの人々が-立案者、組織者、それぞれの階級に応ずる実施者が-関与している巨大な複雑な犯罪にあっては、犯罪遂行のための助言や勧誘についての通常の概念を持ち出しても大して効果はない。これらの犯罪は、単に被害者の数のみではなくその加害者の数からしても大量犯罪であったし、多数の犯人中の或る者が実際の下手人とどれほど近い関係にあったかどうかは、その者の責任の範囲をきめるについて何らの意味もない。反対に、概ね直接に死の道具を操った人間から離れれば離れるほど責任の程度は増大するのである。」 いや、けっこう思い切った判決文ですね。こういう論拠に依っているとは、ちょっと意外でした。そして、ハンナの「責任と判断」の冒頭に収められている「独裁体制のもとでの個人の責任」では、これに関連した諸問題を、さらに追求していきます。 今日のところは、一旦ここで打ち切りましょう。 記事冒頭の画像は、「イェルサレムのアイヒマン」と「責任と判断」ですが、「イェルサレムの...」の表紙写真は、写真家ジョン・ミリGjon Miliの撮った有名な写真が使われています。写っているのは、もちろん収監中のアイヒマンですが、これは独房から出て運動をしているところなんですね。1961年の写真です。 #
by mitch_hagane
| 2020-12-11 19:56
| 5.本
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