本題に入る前に、ちょいと道草。(笑)
2016年6月24日の中日春秋(中日新聞の朝刊コラム)にこんな記事がありました。
『英国の名宰相チャーチルは、有権者に「おまえに投票するくらいなら、悪魔に入れる方がましだ」と、罵倒されたことがあったという。それに答えて曰(いわ)く、「では、あなたのそのご友人が出馬しない場合は、私に一票入れてくださいますな」』
面白い話なんだけど、出典が欲しいですね。
それで調べてみました。残念ながら二次資料しかありませんが、こうです。
“When Churchill was running for office for the first time, he went door to door to ask for votes. He knocked on the door of an irritable man who, when Churchill introduced himself, said, “Vote for you? Why, I’d rather vote for the devil!” “I understand,” answered Churchill. “But in case your friend is not running, may I count on your support?”
― Gretchen Rubin, Forty Ways to Look at Winston Churchill: A Brief Account of a Long Life
ついでなので、みっちが出来るだけ正確に訳してみました。(笑)
『
チャーチルが初めて公職選挙に立候補したとき、彼は投票を求めて戸別訪問をした。ある短気な男のドアを叩いたとき、チャーチルが自己紹介すると、男はこう言った。「お前に投票だって?いっそ、悪魔に投票するさ!」
「分かりました」とチャーチルは答えた、「でも貴方のご友人が立候補しないときには、貴方の支持を当てにしてよろしいですか?」
』
はい、ここまで前座。(笑)
それでは、ヴォルフガング・ワーグナー(1919-2010)のことを。
彼の自伝Actsは、みっちの
過去記事でも紹介済みですが、本人の人となりは自伝からは分からないので、やっぱり公平な第3者の視点からの評価が欲しいです。(笑)
なお、グドルン・ワーグナーGudrun Wagner(1944-2007)は彼の2度目の奥さんです。
ヴォルフガングは1967年から、バイロイト・フェスティバルのただ一人の監督となったわけですが(兄のヴィーラントが1966年に急死したから)、グドルンはバイロイトの「影の」監督と呼ばれていました。(笑)
なおヴォルフガングとグドルンは1976年に結婚しています。そのために、二人はその前妻、前夫とそれぞれ離婚して結ばれたのです。(驚)
『私はしばしば、果たしてヴォルフガング・ワーグナーは芸術家だったのかどうか、という質問を受けてきた。私は自分に期待されている答えが分からないのだ。
』
おおっ、ずばりの質問ですねぇ。そう、ヴィーラント・ワーグナーが芸術家だったのは、皆知っていますが、その弟は単に財政的手腕や政治力に長けたビジネスマンだったのではないか、とかよく噂されます。
ティーレマンはこう答えます。
『私はかの老人は単なる芸術家以上のものであったと思う、それは彼が一家の表看板であることを意識して、できうる限り示した、あるいは望んで示した見かけよりもである。
私のかってのエージェントだったロナルド・ウィルフォードがこう言ったことがある。ヴィーラント・ワーグナーは、「世界一の芸術監督だ」と。それは肯定するしかない。
私が知る限り、バイロイト祝祭劇場ほど完璧に運営され組織された劇場はニューヨークのメトだけである。
』
『そして彼(ヴォルフガング・ワーグナー)は音楽上の問題について、欠くべからざるアドバイザーであった。電話の呼び出しがピットに届く。「ヘル・ワーグナーがちょっと遅すぎると言われてます」「ヘル・ワーグナーが少し音量が大き過ぎと言われてます」
時には彼自身が電話に出た。ピットにある電話は鳴らない、点滅するのだ。片手で受話器をつかみ、もう一方の手で指揮を続けるということになる。
多くのパッセージで、私は今日に至るも、かの老人の耳障りな声を思い出すのだ。まずはやらねばならぬ事tradeを学び、感覚feelingはその後に来る。それは、また、私がヴォルフガング・ワーグナーから学んだことでもある。
』
彼(ヴォルフガング・ワーグナー)は驚異的な記憶力を持っていました。
『クナッパーツブッシュがどのように祝祭劇場の緑の芝生に座って、サイン入りのポストカードを配ったか、カラヤンとの口論、当然ながら、詳細まで、そして何故ショルティは失敗したか、1976年のシェローの「指輪」公演に来た客が、どのように笛を隠し持ち、観客席で吹き鳴らしたか、一家が警察の警護なしでは表に出られなかったこと、興奮した訪問客がグドルン・ワーグナーのイヴニング・ドレスを引き裂いたことなど。その他沢山だ。
』
ああっ、凄い話が一杯聞けたんでしょうねぇ。(羨)
『公演の後、時々は、三四人で、ヴォルフガングの娘のカタリーナ(グドルンとの間に出来た娘)も入れて、一階の古い応接間でミーティングをしたことがあった。長いテーブルが置かれており、そこにはあの避けがたいソーセージ・サラダの大きなボウル(笑)と、まだましなプレッツェルとチーズがあった。そしてエヴィが、彼女はカタリーナの乳母だが、何本かビールのボトルを持ってきてくれるのだ。それから、靴を脱ぎ、シャツのボタンを緩め、集まりはしばしばリラックスして、深夜遅くまで続くことがあった。
』
そして最後が来る。
『ヴォルフガング・ワーグナーは2010年3月21日に亡くなった、それは日曜日で午前2時のことである。3週間後の4月11日に、祝祭劇場で追悼祭があったが、大変寒い気温であった。(劇場に暖房はない)
合唱とオーケストラの演奏があった、ヴォルフガング・ワーグナー自身が選んだ音楽プログラムである。私が指揮をする名誉に浴した。舞台にはただ1枚の写真がそびえていた。80歳ごろのヴォルフガングで、金縁の眼鏡とネクタイをして、逞しく無敵のように見えた、今にもそこから飛び降りて、杖の一叩きで全員を追い出しそうであった。
』
記事冒頭の画像は、バイロイトのオーケストラ・ピットにおけるティレーマンです。
まさにピットの指揮台で電話を使っているところです。
なるほど、こうやって指揮している最中に、電話を受けるんですね。
『右手(めて)に血刀、左手(ゆんで)に手綱』ですなぁ。(愉)