みっちの好きな話-その一つ。千観内供、空也上人に偶ふ。 |
『千観内供(せんかんないぐ)といふ人は、智証大師(ちしょうだいし)の流れ、並びなき智者なり。もとより道心深かりけれど、いかに身をもてなして、いかやうに行ふべしとも思ひ定めず、おのづから月日を送りける間に、或る時、公請(くじょう)を勤めて返りけるに、四条河原にて、空也上人(くうやしょうにん)に偶(あ)ひたりければ、車より下りて対面し、「さても、いかにしてか、後世助かる事は仕るべき」と聞こえければ、聖人、是を聞きて、「何、さかさま事はのたまふぞ。さやうの事は、御房なんどにこそ問ひ奉るべけれ。かかるあやしの身は、ただいふかひなく迷ひありくばかりなり。更に思ひ得たる事侍らず」とて、去りなんとし給ひけるを、袖をひかへて、なほねんごろに問ひければ、「いかにも身を捨ててこそ」とばかりいひて、引き放ちて、足早に行き過ぎ給ひにけり。』
鴨長明『発心集』第一の四『千観内供、遁世籠居(とんせいろうきょ)の事』より
みっちが想像する、この出会いは、こんな感じだ。
このころの京の都の四条河原はどんな様子だったかしらないが、賑やかではあったろう。空也上人は街頭で説法でもしていたのだろうか。人だかりがしていたに違いない。
千観内供は朝廷でのお勤めを終え、車に乗っての帰り道。だれか人をやって、この人だかりは何事かと、見に行かせたのだろう。
従者が帰ってきて報告するには、なんと空也上人その人が説法中であるという。
思わず千観は身を乗り出した。
あの名高い空也上人なら、日頃わだかまっている、この苦しみ、悩み、衆生を済度するはずの自分自身が実は悩んでいるという矛盾と無力感を、分かってもらえるのではないか。上人なら、それらに明快な解を与えてくれるのではないか。
居ても立ってもいられなくなった千観は、車を降りて、人だかりに近づいていく。
説法は終わりになったと見えて、人垣は崩れつつある。空也上人が遠くに見え、だんだんと遠ざかって行く。焦った千観は、人並みをかき分けながら、小走りに走った。もう、見栄も外聞もない、豪奢な衣裳が乱れるのもかまわず、上人に追いつき、問いかける。
突然の問いである。『どのようにしたら來世の救いが得られるのですか?』
あまりに唐突、路上で見ず知らずの者が問いかける言葉ではない。しかも、上人が改めて見れば、相手は朝廷に仕える高位の僧ではないか。上人は取り合わず、去ろうとした。
しかし、千観は必死である。上人の粗末な装束の袖を掴んで離さない。
高僧に似つかぬそのひたむきな形相に、上人も少し感ずるところがあった。
所詮御坊には無理であろうが、という前提付きで、『まずは身を捨ててからのこと』と、短く返し、袖を払って足早に立ち去っていく。
こうして千観は、即座に内供の地位を捨て、車を捨て、衣を捨て、従者を帰して、隠遁の道に入るのである。
ああっ、久しぶりに読み直してみたが、よい話だと思う。
写真はウィキペディア『空也』の項。『六波羅蜜寺 空也上人像』より。